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伝統文化 善を行い徳を積むことが福の源である

 【明慧ネット2005年9月22日】中国の何千年もの歴史において、“善を行い徳を積む”というのが、伝統的な品行の規律であって、それは今日まで尊重されてきた。

 「尚書」(“歴史の本”としても知られる)の中で、著者は言った、「徳だけが天を動かすことができる」。「漢書」(漢朝初期の歴史としても知られる)は言う、「善を行う者は天によって報われる」。だから人々は子供たちに悪いことをせず、できるだけ善い行いをするよう教えた。「良い種を蒔き、良い稔りを得る」。清時代には「小学詩」が説いた、「徳を積めば幸運がもたらされる;不正直な行いは人生を更にみじめにするだけである」。

 三国時代の易学者ヨウ信は、自分の子供たちに善を行い、良い報いを得ることを教えるために、「戒子」を書いた。それは次のようであった。

 「古代の人は名声を得るためや、他人に迎合するために善を行うことはしなかった。彼らの善行は、自分の内面の意向から来た。人間はそうするべきであると信じていた。だから情況が困難であろうと、うまくいこうと、関係なく、彼らの徳行は変わることがなく、終始一貫していた。彼らの行為は神の意に合い、人道にも合っていた。だから神々は彼らを保護し、人々は彼らを尊敬した。彼らの名声は自然に広がり、幸運が自然にやってきた。こうあるべきである。

 ある人々は穏健で、謙遜に見えるが、内に秘めていることがある。彼らは正直で誠実であるふりをしているが、実はずるくて、利己的である。そのような人が賞賛の言葉を聞くと、嬉しさを隠しきれず、更に自我を増長する。批判の言葉を聞くと直ちに善行を行うことに興味を失う。自分の名声や地位が失われると怒り、良い人たちを誹り、陥れたくなる。しかし、彼が人を責めると、皆彼を嫌うようになる;彼が良い人を陥れると、皆彼を憎むようになる。彼が人を犠牲にして昇進しようとすると、うまく行かず、自分に更にダメージをもたらすだけである。

 真実を永遠に隠すことは、不可能である。賞賛や批判は、気ままに曲げることはできない。もしも偽善行為を捨て、良い意見に対して心を開くなら、もしも主観的な観念を捨て、人々の肯定的な面に焦点を当てるなら、その人は全てに対して心を開いており、隠すものは何もない。もしも自信過剰や利己心を捨てることができ、いつも他人のことを思い、良くない場所や邪な活動を避けるなら、その人は吉祥安泰となり、偉大な人となるだろう。

 人々の社会的地位というものは固定せず、不変的ではない。全ては自分が招いたものである。もしも善を行い続けるなら、平民の子が王室の官員となることができ、善を行わなければ、貴人の子が平民となることがある。これらの理を知るなら、善を行うよう自分に言い聞かせることを忘れることがあろうか?」

 富貴、長寿、平安、その他全ての福の源は、徳にある。この理は長い歴史を通じて無数の人々によって実証され続けてきた。だから、古代の賢人や祖先は、子供たちに“善は良い応報をもたらす”ことを信じるよう教えた。又、善を行い、徳を積むことが如何に重要であるかを、繰り返し教えた。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/9/22/110847.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/10/8/65669.html