日本明慧


より深層に隠された人心に警戒しよう

 文/唐山豊潤区大法弟子

 【明慧ネット2005年10月14日】修煉が今日に至り、大法弟子は常人社会の問題をより理性的に観察することができるようになった。これは、私たちの心における修煉の結果の現れでもある。特に最近、胡錦濤の訪問について、大法弟子はいろんな観点による交流を交わし、強力な正念をもって胡錦濤を制御する一部の邪悪を解体させたことで、大法弟子のなすべきことをしっかりやり遂げたと言える。

 常人の観点からみれば、胡錦濤の地位の特殊性ゆえ、何かをする際にもたらされる効果が非常に大きいことは、間違いとはいえない。しかし法の観点から見れば、この観念こそが取り除くべき人心である。すべての常人は大法のためにやってきたのであり、すべての常人は大法弟子に救われるべき対象でもある。このことは常人の権勢、貧富、智慧によって区別されるべきではない。

 旧勢力も救い済度されるべき対象であったが、彼らは自ら淘汰を選択したのである。なぜなら彼らの按配したすべては法を正す際の要求に達することができず、そのため妨害となった、彼らは徹底的に否定されるべきである。胡錦濤は常人に過ぎず、大法弟子に済度されるべき多くの凡人の一人にすぎないのである。彼が最終的に救われるかどうかも、彼の選択のいかんによるものである。大法弟子の責任は、衆生が救われることを妨害する一切の要素を解体させることにあり、もちろんその中には、胡錦濤に妨害する邪悪要素も含まれている。しかしこれはただ一人、数人、一部の人を妨害する邪悪の要素を取り除くだけの問題ではない。私たちはすべての衆生を救わなければならないのである。限られた数人だけを助けたところで、常人社会になんの変化をもたらすことができようか? 邪悪はこれらの衆生を犠牲にしてまで私たちを「向上させる」ように仕向けるだけであろう。

 江沢民が執政していたとき、彼が死んで他の権力者が後をつぐことを、どれほどの人が願っただろうか? 確かに、江沢民はすでに死んでいる。なぜなら彼のすべてはすでに地獄に落ち、ただ常人の皮だけが邪悪によって支えられているに過ぎないのである。しかし今日、胡錦濤が後をついだにもかかわらず、なぜ思うような変化が現れないのだろうか? 人心が強すぎたためではないだろうか? 偉大なる神が、常人が自分のために何かをすることを期待するだろうか? 常人におけるいかなる正しい変化も、神による済度の結果に過ぎないのではないか。

 もう一つのよくない現象とは、たくさんの大法弟子が時間と予言に執着していることだろう。今年の何月、来年になるとどうなるなどと、外界の変化にあまりにも多くの期待を寄せ、師父の法を正す形勢、真相が広く伝わることに頼りすぎていないか? これも一種の外部に求める人心ではないだろうか? 師父に守られる大法弟子は今日の歴史を創っているのに、どうしてこの偉大な使命を他人に託すのだろうか? これでは外部に求めているだけではないか? 予言や戒告で世の人々を戒めるのも良い方法だが、修煉にいかなる影響をも与えてはならないのである。

 数少ない人がこのように考えてもまだよいとして、たくさんの大法弟子がこのように考えることでもたらされた妨害は、どれほどのものになろうか? 実際のところ、私たちが時間や予言に執着すると、その瞬間からすでに法から外れているのである。

 何も考えない。何に対しても執着しない。すべての人心を放下し、今ある機会を利用してより多くの常人を救わねばならないのである。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/14/112275.html