邪悪を見抜く眼力をどうやって養ったのか?
【明慧ネット2005年10月20日】一部の知識人の大法弟子は、ものごとの両面を全部理解して初めて分析能力を持ち、邪悪を見抜く眼力を持てると思い込み、したがって、ずっと法を学んでいる傍ら、自分が興味を感じる参考書や諸子百家の書、現在の宗教家の本を読んだり、テレビ番組を見たり、邪党の宣伝まで読んだりする。彼ら曰く「彼らの説と比較してみて、どちらが正しいか、どちらが理にかなって、どちらが高いかを見てみる」。偽の真理に接触しなければ、どうやってこれらを識別できるだろうか?彼らは自分が他人より多くのことを知り、自分には識別能力があると思っている。実はこれは間違った議論で、「うそ」を基準にしている。
修煉者は返本帰真で、修煉の過程の中で絶えず汚染された自分の先天的本性でない物質を取り除き、先天的高尚、純善、純真な生命の段階に戻る。これこそ人としての実質的な進歩である。修煉者として、諸悪を遠ざけるだけでなく、邪悪な霊を退けるだけでなく、積極的に邪悪を取り除く必要がある。
話によると、イギリス銀行学会は毎年2週間、銀行職員による偽札識別の合宿がある。しかし、訓練のとき、まったく偽札を使わず、すべて本物を使い、授業の内容もあくまで本物の特徴である。偽札に接しなければ、どうやってそれらを識別できるだろうか?一部の人が合宿訓練に懐疑的で、銀行システムは訓練をうけた職員と別の偽札授業をうけた職員に対して追跡調査を行ったが、統計結果によると、このような本物による訓練を受けた職員の偽札識別能力がはるかに優れていた。この方法の秘訣はなんだろうか?専門家の解釈として、訓練時は常に繰り返し本物に接触して、指、目が本物の感覚に慣れるので、日常の仕事で一旦偽札に接するときは、すぐに非常に違和感を覚える。偽札の特徴はまったく知らないが、無意識の内にこれが偽ものだと分かる。
是と非を区別することも偽札識別と同じ原理である。よいか悪いかの判断基準は各自の理由で基準としてはいけない。たとえば、偽札識別はどちらがもっと本物らしいかで判断基準とするのと同じく、多くの偽札の特徴も本物に対するもので、したがって偽札の各種の発展変化の形式で判断の基準とすることには欺瞞性がある。好奇心や闘争心につられてこれらの知識を求めるが、返本帰真の真実の意義を軽視して、どうやって邪悪を見抜く眼力を養えるのだろうか?絶えず真善忍に同化し、正理に同化し、自分の見ているもの、聞いているもの、話していること、行動や付き合いなどはすべて高尚なものであり、自分が真善忍に同化したとき、それらの偽・悪・醜は自然と区別できる。
孔子が曰く「無礼を見るなかれ、無礼を聞くなかれ、無礼を言うなかれ、無礼を働くなかれ」。つまり、文明的でなく、不道徳的で、美しくないものは、見ない、聞かない、言わない、やらないことである。テレビに映っている大声で叫び、醜い、退廃的音楽や、画面を見ないで、邪党のそれら凶悪的、人間性を犠牲にするような考え方の言葉や、闘争的な思惟方式、善でないいわゆる「豪語」も全部根絶する。見たい(聞きたい)場合は、たとえその窓をどんなに小さくしても、その中の信息(これらも生命体であり、多くは悪い生命体である)が一気にきて、これらの番組をみて、本を読んで、これらと付き合うとき、これらの特性と原理があなたに影響を及ぼす。あなたをコントロールし、あなたを汚染し、あなたはこの一点に対して免疫があるといっても、別の一点に対して免疫があるとは限らない。まるで汚れた水が一気にきて、あなたを彼らの一員にしようとするようだ。
もちろん、一部の修煉者は強い正念で邪党のマスコミの不良な影響を排斥して、さらに世の中の人々にこの邪悪なところを説明している。しかし、これは違っていて、あくまで人を済度するためである。興味でテレビをみて、いわゆる「悪いものを見て、分析能力を高める」ことをしようとした修煉者に対して自分の基点と心の動き、考えをもう一度確かめてほしい。修煉は厳粛なのである。
師父は『転法輪』の第八講「気を盗むこと」の中でこうおっしゃった。「他の人は病気を治療する時、それを外へ排出しなければなりませんが、気を盗む人は排出しないばかりか、身体にいっぱい取り込んでいますので、どのような病の気も持っていて、身体の中まで真っ黒になっています。」、「煉功をしているのに人の気をもらってどうしますか?自分の身体を浄化しなければならないのに、どうしてそのうえドロドロとした気を欲しがるのでしょうか!絶対に欲しがってはいけません。気を欲しがる人も、ほかならぬ気の次元にいるのですが、気の次元にいる以上、彼にはどれが良い気で、どれが悪い気か見分けがつきませんし、そうする能力はありません。」私の理解としてこれはひとつの理を教えている。修煉とは知識を求めるようなものではなく、好奇心や求める心や顕示心などを持って「広くいろいろな書物を読む」などして法理を執着で追い求めてはいけないし、自分のものでもない。常人の世界では知識(生活上の技能)が多ければ多いほど良いといっているが、修煉界ではそうではない。
大法弟子として、三つのことがすべて重要で、時間が非常に少なくなっており、常人の趣味をなかなか捨てられず、なかなか出てこられなければ、魔に邪魔され、コントロールされ、徐々に遠ざけられる。修煉には近道がなく、本当に自分を修煉し、師父の要求に沿って、修煉者としての要求に照らして行う過程の中で、執着心を取り除くとき、思想の昇華で各次元の法理を悟ることができる。これが自分の本当の向上である。
正しくないところがあれば、皆さんのご指摘をお願いします。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/10/20/112762.html)
|