日本明慧
|
文/吉林大法弟子・無シン 【明慧ネット2005年11月2日】師父は慈悲でもって、『最後になればなるほど、精進すべき』と私達に教えてくださった。しかし、以前から現在まで、私を精進させない多くの要素が、私の修煉を妨げた。今回の法会を通じて、私はその要素を曝光・解体し、徹底的に除去するつもりである。 3. 口を修めないと、傷人傷己ばかりでなく、精進の進歩を妨げるのである。 話している人は無心であっても、聴いている人は有意の場合がある。そのため、口を修めないと、無意識のうちに他人を傷つけたり、周りの環境を緊張させたり、気持ちにも影響を与え、心の中が不浄になる場合がある。このような状況は、常に冗談から始まるのである。例え、冗談が清浄な心態から始まったとしても、常人の環境での変異した観念が頭の中に侵入して、冗談の意味が変わったりして、人を傷つけたり、人のことを笑ったりする道具になってしまうのである。特に、「成人」の冗談が隙間を見つけて進入して、大法弟子の形象に厳重な損害を与えるのである。冗談は、本当に他人を傷付けるばかりでなく、自分をも傷付けるのである。冷静に考えて、自分でも「大法弟子」と言う名前には資格がないと感じる時がある。そこで、さっき言ったような「自責の念」が生じ、精進の進歩に影響を与えるのである。 4. 「求めること」は人の心のバランスを崩し、気落ち、不公平と言う気持ちに閉じ込もり、修煉者の精進を妨げた。 常人の世界でも、修養がある人は徳で恨みを返すので、修煉者としてはもっと良い心態でやるべきである。しかし、自分が何かをしてあげたと思う場合、不覚にも見返りを求めるようになっている。また、見返りが得られない場合は、非常に気落ちし、不公平だと思って心が静かになることができなくなったのである。ある親戚の子供が長期間私の家に泊まることになった時の事である。その子は人の話を良く聞き、純真で、私は深く心を打たれた(情から出発したもの)。そこで、私はその子のことを特別に思い、自分でも無心で面倒を見ていて、見返りは求めないと思っていた。しかし、時間が経つに連れて、その子の小さな悪い癖などを見つけるようになり、その子の悪い癖を直すため、心を込めて教育を行った。しかし、その子は私とだんだん距離をおくようになり、嘘で私を騙そうとしていた。そこで、私の心は動じてしまい、人々に、「私はその子から見返りを求めない。ただ、彼が私を騙さなければそれでいい」と訴えた。実は、私のこのような状態は、根本的に「求める」心理があったのである。 5 .小さいことを無視すると、修煉者の精進は非常に妨げられるのである。 根本的に言うと、私にこのような状況が起こったのは、法の勉強をちゃんとしなかったことと、法に自分をきちんと照らし合わせなかったことからである。師父は『転法輪』で次のように教えて下さった。「われわれ煉功者においては、トラブルが突然現れることがあります。どのように対処すればよいでしょうか? 平素から慈悲に満ちた、なごやかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕を持って、適切にその問題に対処できるのです。日頃からいつも慈悲心を持って、適切にその問題に対処できるのです。日頃はいつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時はいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、さらに高い基準で自分を律しなければなりません」。また、最近、同修は「人でしょうか?神でしょうか?」と言う文章を書いて、私たちに警鐘を鳴らした。私たちは頑張って精進すべきである。 |