日本明慧


観念を打ち破れば 善良な本性が蘇る

 【明慧ネット2005年11月15日】ある時、私は同修と一緒に買い物に行き、10点の買い物をしたあと、確認のためにもう一度袋を開けて、自分で数え直した。そのとき同修は私が人を信じていないことを指摘してくれたが、私はかつて自分が経験したことを例に挙げて、それに反駁した。数年前、私は10袋の粉ミルクを買ったが、9袋しか渡されなかったことがある。幸いにもその時は数えてみたからよかったが、さもなければ間違いなく1袋少なくもらったはずだった。 

 家に帰ってから、私は自分のことを振り返ってみた。数年前にあったその粉ミルクの事が教訓となり、頭の中で一種の判断基準が形成され、その後はこの基準をもって物事を判断するようになっていた。数年前に形成されたこの観念が私に人を信じないようにさせ、真、善、忍から背離させていたのである。本当の私は先天的に善良であるが、本性を見失い、主元神が観念に制御されたのである。しかし、修煉というのは、後天的観念を捨て去り、本性に戻ることである。 

 師父は『佛性』の中で「業力は真善忍の基準を持っていません。業力が形成されたときの基準で物事を量る時、常人がいうずる賢い人になり、或いは世知に長けている人になりかねません。これは即ち人が修煉している時に様々な思想業力が生じ、修煉を阻害しているのです。人にもし業力の阻害がなければ、修煉はあまりに容易いものになります。その業力は何年前のどのような状態の下、どのような道徳の規準に基づいて形成されたのかによって、その基準で物事を量るのです。もしこのようなものが多く形成されたら、人の一生はこれに左右されるのです。形成された観念が判断した良し悪しの通りに認識してしまいます。こうするべきだと思ってしまいますが、本当の自分はなくなりました。本当の自分は形成された善良ではない後天的な観念に取り囲まれ、覆われています。自分の本当の良し悪しを量る基準はなくなるのです」と述べられた。

 もう一つ例を挙げると、人々は修煉というと、すぐ山奥にこもる事、あるいは出家して和尚、尼僧になることを想像する。過去の修煉形式も観念を形成させ、人の修煉に影響し、容易に人を極端に走らせる。名利を放下するというと、名利は要らないと思い、ある人は正常な商売まで放棄した。ある人は修煉というとすぐ苦労すること、耐えることを思い付くので、一部の人は監獄の中の「英雄」を崇拝するなどの現象を招くのである。多くの極端に走る事例は、皆大法の修煉形式をよく理解していないからであり、過去の修煉形式の影響を受けているのだ。 

 更に例を挙げてみると、共産邪党は中国を統治した数十年間、人々に意識的に党の文化を植え付け、ひどく人々の観念を乱した。無神論の偽の道理を宣揚し、絶対平均主義を行い、悪党と国家の概念を混同させるなどなど。もし人が無神論のへ理屈を受け入れれば、有神論の佛法真理が現れた時、本能的に排斥するが、それは本当のあなたが排斥しているのか? いや、それは無神論の共産邪霊が人の大脳を制御して、排斥する思想を生じさせたからである。あなたが一旦有神論を信じれば、無神論の共産邪霊は死んでしまうからである。私達は修煉において、「一思一念」どれが外来の信息で、どれが邪魔で、どれが観念で、どれがあなたの本当の主念なのかを、だんだんとはっきり見分けるようになった時、あなたの本当の本性は徐々に蘇ってくるのである。 
個人の悟りなので、同修の慈悲の指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/15/114558.html