劉建軍さんと苗伝増さんが河北高陽労動教養所で受け尽くした迫害の真実
【明慧ネット2005年11月16日】2000年11月、河北省の大法学習者である劉建軍さんと苗伝増さんら26人が唐山開平労働教養所から一人当たり月収800元の値段で保定高陽労動教養所に売られた。不法に高陽労動教養所に送り込まれた大法学習者たちは、そこに着いた途端、強制的に身体検査を受け、毎日洗脳と残虐な体刑によるいわゆる「転化」を強制された。学習者たちはここで完全に人身の自由を失い、非人道的な侮辱と残忍悲道な苦難の迫害を受け尽くした。
2000年10月7日、張家口市大法学習者の苗伝増さんは、北京天安門広場に行って横断幕を広げたことにより、3人の私服警官からめった打ちされた後、現地の工業街派出所に不法に拘禁された。その2日後に宣化留置所に転送され、そこでまた1ヶ月あまりの不法拘禁を強いられた。11月10日前後、張家口橋東支局局長である馬富威、工業街派出所警官許×、花園街派出所女性警官劉××、事務所の申学武ら5人により、苗伝増さん、劉建軍さん、于俊玲さん、曹建林さん、王志嫻さんなど5人の大法学習者は、唐山開平労動教養所に転送されて引き続き迫害を受けた。
当時、大法学習者の劉建軍さんは、連続して33日の絶食抗議を行い、しかも体には深刻な傷を負っていた。にもかかわらず悪警官らは、彼が病院で検査を受ける時汚い手を加えて、強制的に開平労動教養所に受け入れさせた。劉建軍さんは2000年10月6日再び法を証明するために北京に行ったが、天安門広場で5、6人の警官に取り囲まれて気が狂ったかのような滅多打ちに遭い、左目の出血と鼻筋の骨折により流血が止まらず、命の危険にさらされた。
海淀病院に搬送されて検査を受けた結果、肋骨の骨折、左目の視力低下、鼻筋が非常に腫れ上がるなどの迫害により、命が危険な状態に陥った。15日間、警官らはビデオカメラを持って彼に名前と住所を言うように強制し、18日目にまた劉建軍さんを海淀留置場に引きずり戻して、4人の刑事犯に見張りをさせて、ああらゆる悪知恵を働かせて、劉建軍さんに供述を強要
し彼を拘束し、直接賜児山労動教養所に送り込んだ。そこでの健康診断が通らず、労動教養所から収容を拒否された。劉建軍さんは20日余りの絶食抗議をおこなって命が極めて危険な状態にあるにもかかわらず、花園街派出所は彼をまた引っ張り戻し、その後はまた十三里留置所に転送して不法労働教養を強いた。
高陽労動教養所で当番隊長の冀××、方鮑と運転手の王×らは、劉建軍さんを押し倒して、殴ったり蹴ったり、電気棒を当てるなど劉さんはいまだに前歯に裂け目が残っている。何万ボルトの高圧「手動電話」(電気刑具の一種)を使って2時間にわたって迫害を続けた。劉建軍さんの心臓と体は引き裂けるような筆舌に尽くしがたいほどの苦痛を受けた。警官は電気棒を劉さんの顔、手、足に当てて苦痛を与えて大法修煉を放下させようとした。五大隊の胡成堂、楊沢民は気が狂ったかのように悪警官らに指示すると、10センチもあるくぎを持って「もし、私たちの条件を呑まないと、この釘をお前の太腿に差し込んでやる。一生の障害になるぞ!」と、脅迫した。
2000年11月18日、邪悪らはまた劉建軍さんを五大隊の労務所に送り込んで強制労働をさせた。重労働を強いた。毎日数十キロもある顔料を持ち上げて休むことなく12時間も歩き続けなければならない。ちょっとでもうっかりすると棒などで滅多打ちされる。食事は毎日塩水につけた腐った白菜だが食べ終わって碗の下を見ると泥と砂がたくさん残っている。四つのシングルベッドが9人に割り当てられ、毎日体を斜めにして寝なければならない。特に、夜中トイレに行って来る間に寝る場所がなくなることがよくある。長きにわたる重労働による疲労と睡眠不足により2001年2月20日劉建軍は、強制労働中に機械に押し付けられて左手の人差し指と中指がぺちゃんこになり、指の肉が炸裂した。病院に運ばれて15針を縫うなど苦難と苦痛を受け尽くした。
2001年3月、五大隊の悪警官らは劉建軍さんを大隊に戻して、李先生と大法を中傷するように脅迫した。4月2日、劉さんのお母さんが息子の見舞いに来て帰った後、五大隊の悪警官らは彼をバスケットボール架に縛り付けて李先生と大法が邪教であると中傷するように強制した。劉さんは彼らにそのすべてこそが中傷である教えると、邪悪らは前後の見境もなく怒り、もっぱら大法学習者の迫害に使う「鉄輪」(刑具の一種))に劉さんを縛り付けた。両手を両方面に引き伸ばして、しゃがむ姿勢を取らせて手錠を下の鉄の輪に固定して、迫害の工夫を変えながら彼に苦痛を与えた。悪警官らは強制的に劉さんを引きずって歩かせようとした。劉さんに拒否された悪警官の梁保科は腕を振り回して彼の顔を2、30回も殴りつけた。殴った後また劉さんを下の鉄輪に縛り付けた。劉建軍さんは絶食で迫害に抗議した。
大法学習者たちは高陽労動教養所で迫害を受け尽くした。毎日5時に起こされ、ご飯を食べて強制労働に行くが昼休みもなく暗くなるまで労働が続く。腹一杯食べることができず、ただ野菜汁を飲むだけの状況下で大法学習者たちは毎日10時間余りの強制労働と強制洗脳および四書を強制される。
邪悪な迫害を制止させるために2001年5月大半の学習者たちが絶食を行った。邪悪らは苗伝増さんを事務室に呼び付けて、彼の頭を下に押し付けて、誰が絶食を扇動したのか供述しろうと脅かした。大隊長の李××、隊長武××、趙××、李××などの中には頭を踏みつけるものもいれば、足を踏みつけるものもいて、苗伝増さんを下に打ち倒して三本の電気棒で使って同時に彼の体に衝撃を与えた。引き続き、邪悪らは鉄棒を50センチほど土に突っ込んで苗伝増さんと他の学習者たちに手錠を掛けて鉄輪に縛り付けた。そして、4人の警官が三本の電気棒の振り回して同時に衝撃に与えながら強制労働に出るように強いた。学習者たちの背中は電気棒の衝撃により焦げつき、想像を絶する痛みにより気絶する学習者もいた。
2001年5月16日邪悪らは断固として大法を放棄しない5人の学習者を五大隊に送り込んで、「四書」を書くように強制した。書かないと学習者の手錠を鉄輪に固定して、座ることも、立ち上がることも、しゃがむこともできない残忍なやり方で昼夜にわたり寝かせずに迫害を加える。昼間は日にさらしっ放しにして、夜は蚊に食わせるなど長時間にわたり学習者たちを縛り付けた。邪悪らの非人道的な迫害と洗脳によりぼんやりとした精神状態下で苗伝増さんは「4書」を書いてしまった。後に意識を回復した彼はとても後悔して、「脅迫下で書いた四書に関しその全てを無効にする」と直ちに厳正な声明を発表した。高陽労動教養所の邪悪らは前後の見境もなく怒り、苗伝増さんに更に残酷な迫害を行った。10人を超える警官らが苗伝増さんを豚の小屋に縛り付けて、12本の釘を持って来て一時間内に結論を出すように脅迫した。
高陽労働教育所内の大法学習者たちは、ありとあらゆる侮辱と苦しみを加えられ、毎日腹一杯食べることができないまま、依然として溝を掘るなどの労働を強制された。2002年苗伝増さんは、強制労働の時うっかりして重傷を負い、仕事ができなくなり、同年の2月24日高陽労動教養所に返還された。釈放されてからも工業街派出所と事務所の邪悪らの絶えることのない不法な家宅捜査や脅迫により、苗伝増さんは路頭に迷う生活を余儀なくされた。
2002年5月26日高陽労動教養所の五大隊の悪警官の王治台と王国有は、劉建軍さんと他の二人の大法学習者を24時間にわたって鉄輪に縛り付けた。そして、27日斗沼労務所に送り込んで、毎日12時間の強制労働を強いた。そこで学習者たちは他の犯罪者に何度もめった打ちされた。6月5日、劉建軍さんは長きにわたる超負荷的な強制労働により、体が極度に虚弱し強制労働中に気を失ってしまった。斗沼労務所中隊長の唐広軍は、(飲酒直後)、人に命令して劉建軍さんを無理やり立たせて気が狂ったかのように電気棒を彼の頭と顔などに当て、しかも、殴る蹴るなど3回連続して劉建軍さんをめった打ちに遭わせた。
劉建軍さんの口や鼻からは血が流れ出し、頭と顔は見間違えるほど酷く腫れ上がった。唐広軍は暴力を加え終えると、劉建軍さんに休憩も与えずに、強制労働に行かせようとした。劉建軍さんは、唐の行為は違法であると非難し、強制労働を拒絶した。その後二人の教導員(五大隊段の××と李××)が来て劉建軍さんの顔の血を洗い流した。その二人の教導員の帰りを待って、唐はまた劉建軍さんを滅多打ちした。
翌日、五大隊の隊長の楊沢民、方鮑、梁保科などは劉建軍さんと他の二人の大法学習者を五大隊に連れて行った。方鮑は靴を脱いで劉建軍さんの顔を10数回叩き付けて、その後彼を古い倉庫に閉じ込めて鉄輪に手錠を掛けて縛り付けた。そして、睡眠を奪い、少しでも寝ると滅多打ちや電気による衝撃を与えた。また李先生と大法をののしるように強制し、邪道者の邪語を注ぎ込んで強制洗脳を行った。このように劉建軍さんは、鉄輪に49日間も縛り付けられていた。
劉建軍さんは、決して邪悪に妥協することなく、8月9日にはまた強制的に安新建昌労務所に送り込まれて迫害を受け続けた。毎日5トンの銅を溶かして精錬した。3日のうち一回は残業が付き、10トンに相当する労働を強いられた。毎日高温下で超負荷の強制労働をさせられるが厳寒の季節になっても氷のような冷たい水道水で入浴しなければならない。2002年10月20日劉建軍さんはトイレに行こうとし、ドアをノックしたが(当番警官が外から鍵をかけている)反応がなかった。それなのに悪人の王賀雨(現在すでに家に帰っている)は、トイレにまで追いかけてきてののしったり殴ったりした。
2003年一人の犯罪者が逃げ出したため、労務所には緊張が走った。6月3日夜の12時頃、劉建軍さんが寝ているのに当番警官の喬雄が来てわけもなく彼をベッドから下りさせた。何も言わずにいきなり劉さんの顔を殴り付けた。理由は頭を中に向けて寝ることを許さないという。劉さんは、それは違法行為であると厳しく非難したため、また一発殴られたがちょうど胸部の傷のところに命中して、窒息するような苦しみを受けた。翌日劉建軍さんは起き上がることすらできず、8月27日になってやっと釈放された。釈放の手続きをする時、五大隊は劉さんの250元の預金残高を全部奪い取っただけではなく、その後もまた600元をゆすり取った。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/16/114662.html)
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