日本明慧


私心を取り除き 衆生を救うことを妨げない

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2005年11月7日】逮捕されて転化班に入った後、私は苦難の中で自分を反省していた。そして逮捕された同修のいろいろな面を見て自分の不足を深刻に感じた。邪悪がどのように私達の隙に乗じるのか——恐れる心の中で同修の目つきは狼狽し混乱している。彼らは同修の恐れる心に手を出して、彼らがほしがる資料センターとその他の同修に関する資料と情報を得た。顕示心が強くて、独りよがりな同修がいた。彼らは同修の顕示心を利用して、知らないうちに多くの関連情報と資料の出所と行方を入手した。理性的な状態を保てない同修がいると、迫害者たちはこのような同修に対して、理性を失った後の法に反した話を宣伝し大法を破壊させることで、そのような言動をした同修に自分がすでにやっていけないことをしたことを示すことで、過ちのある同修の精神を崩壊させ、もはや自分には大法弟子となる資格もないと感じさせてから、このような同修に修練を放棄させてから自分たちのほしがる資料を入手するように誘導する。このように、彼らの目的とは私たちが師父が法を正し、衆生を救い済度することを幇助することを妨害することである。そして法を正す時期のあるべき修練者の状態ではなく、いまだ平和時期における個人修練の状態にある同修を苦しめると同時に、このような同修に他の修練者を苦しめるようにさせるのである。

 師父は「厳格に法を師にし、師父が公に発表したものでないCDを廃棄しよう』の文章の師父評注「認識をはっきりさせよう」の中で、「学習者として、師父の要求にしたがって行わなければ、きっと簡単には済まなくなる。旧勢力は全ての学習者に対して旧勢力のものを按配した。大法弟子が師父の要求に従って行っていなければ、きっと旧勢力の按配に行ってしまう。実は、旧勢力は法を正す中で大法弟子が歩んで来られるかどうかのことに対してやっており、いつも皆さんと隣り合わせになっている巨大な関と難と一緒にいるのである」と言われた。

 時々、私達は法に対する認識がはっきりしてないため、真相を伝えることと衆生を済度することをしながらも、正法時期の大法弟子の基準に達しておらず、いかなることをするにも、いつも自分の向上、自分の円満を考え、内心から衆生を救い済度することを考えず、衆生を救い再度する目的を考えず、自分の円満を考えている。よって、知らないうちに、強烈な求める心をもって、衆生を救い済度することと師父について法を正すことを行っている。この部分の同修は逮捕された後も目が覚めておらず、とても理性がなく、あれらの警察は、みな3歳の子供のようでとても簡単だ、と笑っている。彼らに尋ねるとはっきりと答える、なにも隠さない、彼らは自己の向上、自己の円満が目的だから、資料センターを保護するのではなく、自己を保護する。衆生を救い済度するのが目的ではなくて、魔難に耐えるのが目的だから、たくさんのことを話して、衆生を救い済度することに多くの損失をもたらす話をした。

 一部の資料点が安全を重視しないのは、心の中で個人修煉から脱け出ていないからではないだろうか。

 もし私達が理性的にこの現実の魔難を認識しないと、自分を修めずして、資料センターを保護しても、どうやって本当に他人のためだと言えるのだろうか。衆生のために責任を負い、どうやって心から衆生を済度するのだろうか?自己の向上、自己の円満が目的なのだろうか?

 誰が今回の正法の中にいないのだろうか?ただ旧勢力だけが今回の正法で取り除く対象だと思わないでください。私達は大法弟子だからその中には入っていないと思わないでください。師父の要求に従わず、一部の同修は自分で真面目に大法に同化せず、すすんで私心を取り除かず、いつも多くの大法のことをすると円満できると思い、大法の中でこのような平安を求め、円満を求め、師父の法を曲解し、師父の慈悲を曲解している。一部の人は資料を配りながら、迫害の真相を伝えながら、自分は常人と同じように、常人世界で名利のために常人と争ったりすると、たとえ真相資料を常人の手に渡すことができたとしても、資料を手にする常人は自分の言動をみると、資料のいっていることは本当かどうかを疑うようになる。誰が衆生に真相を理解することを妨げているのだろうか。誰が衆生を救うことを妨げているのだろうか?私達は大法の名義を利用して大法の名誉を汚しているのではないだろうか。

 私達がうまく行わない時、私達大法弟子のあれらの努力、配った資料、それらの苦痛の中で耐えている更に多くの同修の努力は無駄になり、そして私達が師父の要求に従わないということは、同時に衆生が救い済度されることを妨げることではないだろうか?私達の私心、求める心とすべての執着心は、みな正法の中で正し、取り除くものではないだろうか?私達の言動、一念はすべて、衆生が救われるかどうかに関係する。もし私達が自分の責任を認識せず、主動的に自分を正さず、無知の中で大法の名誉を汚し、衆生を救うことを妨げれば、これは有罪なのではないか?

 個人の認識で、次元に限りがあり、正しくないところは慈悲をもってご指摘を願います。

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2005/11/7/113764.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/11/19/67030.html)