日本明慧
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文/大陸大法弟子 【明慧ネット2005年11月19日】私は1998年の9月から法輪功を修煉するようになった。その当時は、まだ集団で法を学ぶ環境も整っていた。毎日煉功点で一緒に学法煉功することで、常に精進することができ、次元の向上も速かった。 しかし7月20日から、中国共産党が法輪功に対する迫害を始めるようになり、法を正す時期に入ってから、修煉の道のりで、私は法を正す時期の大法弟子の使命及び責任や三つのこともちゃんとやっていて、邪悪による迫害をくぐりぬくことができた。 しかし、自分は何をしても、自分の見解を堅持することができず、何をしてもはっきりとした答えが出せないままでいた。自分の判断によって行動するのではなく、いつも他人に頼っていて、時には自分の考えたことが正しいと分かっていても、他人から異なった意見が出されると、迷ってしまい、他人の意見を基準とみなして、自分の見解を変えることが何度もあった。 数日前に、修煉の体験を書き終えてから、ある同修に「ちょっと文章に間違ったところや誤字がないかを、チェックしてもらえる?」と頼んだ。私が文章を読むのを聴いて、同修はその文章をパソコンに入力した。ある段落を読み終えると、「ここがちょっとおかしい」と同修が言うのを聞き、私は何も考えずその場で「じゃあ自由に直して、いらない段落があったら削除していいよ。」と答えた。それを聞いた同修は「間違ったところを修正するのはいいし、文章に問題があったら一緒に考えるのもいいけど、あなたの書いた内容や伝えたいことを変えてはいけないでしょ。もしそれすら変わったら、もはやあなたの書いた文章じゃなくなるじゃない?自分のしっかりした見解が必要なのだよ。」と厳しく言った。 同修の話を聴いて、私は初めて、考えもしないで他人に付和雷同するのも、おそれる心や自己保身などの人心、常人の情の表れではないかと気づいた。一人の大法弟子として、自分の正念をもって、自分にしかない路を歩み、自分の果位を悟ることこそ、威徳を樹立することができる。しかしこのままではいけないと分かっていながらも、この状態が1年間続いていた。 今年の3月ころ、私は自分の修煉の体験を文章にして、資料管理を担当する同修に読んでもらったら、同修は「明慧ネットではこの方面に関する文章をたくさん掲載しているけど、どれもあなたのより良くかけているよ」と言った。同修の話を聞いてから、私は何も言わずに投稿の紙を破り捨てた。師父は私たちに「真・善・忍こそが良い人か、それとも悪い人かを計る唯一の基準である」とおっしゃっている上、同修も「よくかけないことをおそれないで、明慧ネットに届いたすべての文章は、みんな明慧ネットの責任者に修正されるから。発表するかしないかは重要ではなく、文章を書く過程そのものも修煉の過程じゃないか」と言った。 それを聞いて私は修煉の体験及び迫害を暴く文章をもう一度書いてみた。しかし少し前に、この同修は逮捕され迫害されるようになった。私の状態も良くなく、おそれる心も強く、二度目に書いた文章を再び破り捨てた。自分をここまでさせた原因とは一体何なのかを、しっかり見つけ出すべきなのに、これは法を正す時期の大法弟子のあるべき状態ではないのではないか? 慈悲なる師父が何度も私に啓示を与え、ある晩私は夢を見た。夢の中で、私は同修と一緒に自転車に乗っていた。前にいた同修は非常に安定していたが、後ろをついていく私の自転車は左右に揺れたり、ハンドルもしっかり握れない状態で、こっちに行ったり、あっちに行ったり、最後は自転車が前に進まなくなって、ハンドルまで消えた。夢から覚めると、師父からの啓示だと分かっていながらも、どうせただの夢だと思って、内に向かって探さなかった。その時期、私は自分の修煉を怠っていて、それまでの精進する意志も薄れていた。 前はたくさんの法を暗記することができたが、今は全く覚えられなくなった。同修が師父の説法について言及するとき、何も思い出せず、印象すらなかった。発正念の目的もただ自分を守るためで、恐れる心も非常に強かったため、昼間はパソコンを立ち上げる勇気もなく、夜に少しでも音がすると直ちに資料を印刷するすべての機械の電源を切るようにしていた。一日中パソコンを使う勇気がなく、毎週ただ数冊の週刊を印刷するだけだった。真相資料が出せない私の状況が悪いのを見て、同修も私と一緒に発正念するようにし、もっと法を学び、自分の空間を清めるように正念を発するようにといわれた。 その後法を学ぶことで、正念も随分強くなり、おそれる心も消え、一日のいつでも資料を作ることができた。同修の要求した通りの資料を印刷することができ、これまでの圧力も感じなくなった。そこで前までの状態に陥ったのは自分の見解や正念がなく、法を踏まえて修煉していないからだと分かった。なぜなら正念は法から来るからである。法をよく学ばないようではどうやって正念を保てるだろうか?おそれる心もなくなり、法の中で修めることこそ最も安全であると分かった。 本当に法の中で精進しなければならない!師父も『最後になればなるほど、精進すべき』の中で、「実はみなさん考えてみてください。今までの修煉者は一生を費やして初めて歩み終えるこの道のりでも、一刻も怠りませんでした。大法に済度される生命に与えられる果位を成就させようとする大法弟子は、修煉の中で最も利便な修煉法門があるのに、法を証明しながら修煉するというこの最も偉大な栄光が瞬く間に去って行く短い修煉の間に、なぜもっと精進せずにいられるのでしょうか?」とおっしゃっていました。考えてみれば全くその通りだ。もっと精進しなければならないのだ。最後のこの道のりをしっかり歩まなくては。 『明慧週刊』を見るたび、たくさんの同修たちが積極的に明慧ネットに投稿していて、特にある同修の書いた「私も投稿する」は私に大きな影響を与えた。明慧ネットは真相を伝えると同時に、また大法弟子の修煉のサイトであることを初めて知った。すべての同修たちは投稿することで一切の邪悪の要素を取り除き、旧勢力の按配をすべて否定すると同時に、また師父が衆生を救い済度することを助けることにもなる。明慧ネットはすべての学習者が交流することで向上する修煉環境なので、そこで私も自分の修煉体験を投稿してみなさんとともに向上したいと思う。自分の不足を正視し、解体させ、本当の自分を見つけ出す。 ありがとうございます。非常に低い認識の下で書きました。正しくないとことはぜひ指摘して下さい。
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