日本明慧


神の視点から問題を考える

 文/黒龍江省大法弟子

 【明慧ネット2005年11月23日】人間界の理は、宇宙の正しい法理と比べて、正反対であり、人間と神の思考方式の差異は必ず生じ、そのため問題を考える視点が異なってくるのである。同じ出来事についても、えてして、人間の考え方と観点は神とは異なってくる。例えば、失と徳の問題についても、人間からすれば、多くもらえばもらうほど良いと感じ、全世界の富を自分のものにしたいほど欲張るものだ。また誰も失いたくないし、少しでも失うと心を痛めてしまう。しかし神の考え方や観点は、全くその反対で、「その人はたくさん得れば得るほど、その分だけ人を傷つけることになって、得るべきではないものまで得てしまうのですが、名利を追い求めることで徳を失いかねないのです」(『転法輪』)。そのため、本当の得とは失うことであり、他人のために払うことである。

 苦楽の問題について、常人は、喜んで苦をなめたいと思う人はなく、みんな、享楽し、一生気持ちよく暮らしたいと考えている。しかし神から見れば、享楽することは良い報いを消耗し、徳と交換されたものであり、苦をなめることはすなわち業を返すことであり、「苦しみに耐えることを楽と見なす」のである。

 宇宙空間に対する認識について言うと、人間が足で踏んでいるこの大地が地で、頭上にある空が天と考えている。しかし神から見れば、分子で構成された空間内のすべての物質(土、空、海、空気、森等)は地であり、よりミクロ的な物質で構成された空間内の物質こそが、天だと考えている。

 今なお続いている残酷な迫害についても、人間は、これは人間同士の迫害だと見ているが、神から見れば、今回の迫害は、邪悪な旧勢力が黒い手や卑しい鬼をコントロールして、人間界の悪人を利用して、大法の徒(未来の神)を迫害していることになる。

 このように、これは人間と神との問題に関する観点が違うがゆえに、もたらされた差異である。総括的にいうと、人間が問題を考えるとき、いつも平面しかみていないのに対し、神が問題を見るときは、いつも全方位で全体的に見ている。人間の視覚範囲は私たちの存在するこの空間を超えることができない。そのため常人が考えている立体空間とは、実際はみな一つの層に留まっている。「宇宙を見る時の神と人間の最大の違いは、神は、この次元の粒子の構造から見ているのではなく、宇宙の構造の組み合わせにおけるこの次元の上と下にある各次元から、全方位的で立体的に見ているのです。神には宇宙の各次元にある物体のすべての構成と現れが見え、根本からその状態を見ています。しかし、人間には、分子という次元の粒子の組み合わせによって構成されたこの世界、この次元の粒子で構成したものしか見ることができません。しかし、宇宙はただこの次元の粒子だけによって構成されているわけではありません」(『2004年米国西部法会での説法』)。

 どのような視点で問題を見るかは、その生命の所在する境界を現しているのである。平面の視点でしか問題を見ることができないのであれば、その人は人間に過ぎない。立体的な視点から問題を見ることができれば、その人は神である。私たち大法弟子はまだ修煉の段階であって、いまだ円満成就しておらず、完全に神まで修めていないのだが、私たちは神の道を歩む者であり、神へ一歩一歩と近づきつつあるのだ。そのため「われわれは真の煉功者として高い次元に立って物事を見なければなりません。常人の観点で物事を見てはならないのです」。私たちはまだ「宇宙の構造の組み合わせにおけるこの次元の上と下とにある各次元から、全方位的で立体的に見る」ことはできないが、私たちが問題を見るとき、必ず常人の平面視点から抜け出さねばならず、神の立体的な視点で見なければならないのである。これは私たちの個人修煉の上昇、衆生を救い済度すること、および迫害に反対することにとって非常に重要なことである。神の視点で問題を見れば、正念が強くなり、精進し、自分の道を正しく歩めるようになる。

 本当に神の視点で問題を見るには、法をしっかり学ぶことが、唯一の方法となる。師父は法の中で、宇宙の構造について、異なる時空の特徴及び三界内と外の相違について、説法なさったことがある。もし私たちがしっかり法を学ぶことができたら、自然に非常に高い次元から問題を見ることができるようになり、すなわち神の視点で上から下を眺め、真相は一目瞭然となろう。この点において、天目が見える人と見えない人との間には、何の差異もない。見えるかどうかが重要ではなく、私たちの境界がすでに常人を超えている、ということこそ最も重要である
 
 個人の悟りなので、正しくない部分はどうぞ指摘してください。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/23/115043.html