日本明慧
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文/蘭州大法弟子 【明慧ネット2005年11月24日】長い間私はずっと三つのことを行うときに私心が混ざっていた。この心は深く隠れていて、気づきにくいもので、三つのことを行うことを通じて更に速く向上したい、大法が衆生を済度する機縁の中で落後したくないと思っていた。今になってみると、この心は純粋ではない、最も影響するのは、真相を伝える中で他人を感動させることができないことだ。 私は長い間、急いで法を学ぶ中で、自分が更に速く向上できるという考えがあったため、目は一文字も落とさずに見ているが、心の中では重要かどうかを区別していた。後天の観念によって、自分が向上できると思う部分は真剣に、自分の向上にあまり関わらないと思う部分はあまり気にしない。この執着に妨げられ、法の本当の意義を理解できなかった、この執着によって、私は法の要求に達せず、真に向上することができなかった。「向上」するのは求めてきたものではない。師父がおっしゃったように「神:彼らの中には、自ら良いと思っている大法の一面を求めに来た人がいて、自らが法のすべてを認識できぬ原因となっている、もう一つの面を捨てられないわけです。」(『時間との対話』) 『明慧週刊』を読むときも、私は区別する心があった。心の中では分かっているが、明慧ネットは師父が私達にくれた信頼できるウェブサイトで、『明慧週刊』のすべての内容を真剣に読むべきだが、いつも「興味がある」のは「修煉体験 全体向上」の部分で、これは自分に最も有効的だと感じた。「総合ニュース、真相を伝える、衆生を救い済度する」など内容は簡単に読み、あまり心に入ってなかった。なぜ私はこれらに関心を持たなかったのか、今やっと分かった。これらは私に効果的ではないという観念があった。ここまで書くととても恥かしくなる、これらのような、大法の中で求めようとする人心はどんなに恐ろしくて汚いものだろう。実は、自分が読みたくないものは自分への障害が最も大きい部分で、人心の最も重い部分だ。 今やっと分かった、この部分の内容で大法が世界に広がる状況を知ることができ、国内外の大法弟子が大法を実証する状況、大法弟子が迫害された状況と衆生が真相を理解し、生命が生き残る望みの状況を知ることができる。このすべてに関心をもたない人は正法時期の大法弟子と言えるだろうか? ただ自分の向上だけに関心を持ち、大法、同修、衆生を救い済度することに関心を持たない、これが私心ではなくて何だというのか? これらが分かったとき、心に包まれた殻が壊されたようだった、心の容量が一気に大きくなった。自分の根本的な執着が見つかった(大法が私に与えた人間社会での有利なこと)後、心の中は澄みきっていた。 数年来、私はあまり交流の文章を書かなかった。三つのことを行う中にもいろいろな体験がある。書きたいが、自分は書けないと思って、人の観念で時間がもったいない、学法に影響する、正念を発することに影響する(自分の向上に影響する)と思っていた。法を学ぶときはいつも急いでいるが、法の理はいつもはっきりと理解していなかった。そして、自分の執着心にもずっと気づかなかった。『第2回大陸大法弟子の修煉体験書面交流大会』の通知を見て、師父の何篇かの法会に関する経文を勉強した(普段あまり重視しなかった経文)。師父はおっしゃった、「私たちは法会を、経験をまとめ、足りないところを見出し、良い成果を生かし、大法弟子の正念を樹立する盛会にすべきです。これまで行った全てを大切にし、今後の道を更に良く歩むようにしてください。」(『師父からヨーロッパウィーン法会へのお言葉』) 私は自分のこの数年の修煉を振り返って、過去の経験を総括して、修煉の不足を探して、交流原稿を書く過程で、私はずっと取り除かなかった根本の執着と深く隠された人心に気づくことができた。今度こそ、やっと交流原稿を書くことが遅れないだけではなく、法を学ぶこと、正念を発することにも影響しなくなった。逆に本当に大法の中で向上でき、上昇でき、真相を伝えるときの考え方も更にはっきりした。 数日前、私は一人の常人と話をしたとき、自然に彼に真相を伝えたが、そのとき、私の話は自然に心の中から流れてきたようだった、自分も人に真相を伝えていることを意識していなかった。後になって思い出すと、今回の真相を伝える活動はいつもと違う。以前は真相を伝えるために話していたが、今回は心で真相を伝えた。 |