日本明慧


法理を悟ってこそ、真に放下できる

 【明慧ネット2005年11月29日】以前は、師父が要求されたことだけやり、やってはいけないことはやらないくらいしか分からなかった。しかし時間が経つにつれ、正念が強くない時は、正しくないと分かっていても放下することができず、やってはいけないことをついやってしまう。主な原因は師父が説かれたのは「法」であり、常人の指示のようなものではないので、法理をはっきり理解してこそ、強い正念が生まれるのである。

 たとえば、私の上司はいつも私を叱る。常人から見れば、これはまさにおとなしい人へのいじめである。師父は「忍」を説いておられるが、このようなことが長くなると、私は我慢できなくなった。実は私が叱られることには三つの原因があった。一つ目は、私に闘争心があった。二つ目は、私には気に入らない話は聞きたがらない心があり、実は名利心と情が放下できていないため、旧勢力に隙に乗じられた。三つ目は、業力転化の要素があり、かつて相手に借りがあったからである。時々、私は彼らにゴマをすったり、時にはわざと彼らに顔色を変えて見せたりと、いろいろとやってみた。目的は、彼らにいつも私を叱ってばかりいないでください、という合図を送るためだったのだが、いつも効果はよくなかった。人間の理で修煉の関を乗り越えようとしても、当然通用しない。いろいろな工夫をすればするほど、自分の業力を返せなくなり、しかも執着心を取除くこともできないため、上司からは延々と叱られるわけであった。

 私は、いつも「忍」が守れず、すぐにかっとなり、乗り越えなければならない関が現れても、いつも積極的ではなかった。解決の方法も常人の中でも一番悪い方法であった。大きな難関に出会うと、いつも死に物狂いでおいしいものを食べることによって、精神的圧力を緩和しようとしていた。これは食に対する欲望の心を放下できず、その次に法を学ぶことを重要視しなかったので、常人でもよくないと思われる方法で問題の解決を図ったのである。実はそれは苦難に対抗し、神としての念ではなく、人間の観念で物事を捉えたからである。

 使命を持って世の中に来たのに、常人の中で惑わされた人を、早く元のところに戻らせるために、 彼にたくさんの苦を与えることによって、身体を浄化してあげる、「真瘋」(注1)という方法が用いられる。神の角度から見れば、多く苦しみを与えることは、実はその人に対する配慮であり、彼によいことをしてあげることである。誰かが私に対してよくないことをしたとして、私がいろいろな常人の方法で解決を試みたところで、解決できない。解決したとしても心性や法理に対する認識は高まっていないので、業も消えない。従って最初からもう一度やりなおさなければならない。これは真に法を認識できていないため生じることである。

 以前、師父に関するストーリーを読んだことがある。師父が飲食店でラーメンを注文されたが、しょっぱすぎて苦いほどだった。師父は微かに「少し、しょっぱいね」とおっしゃっただけだったが、店員の非難に遭った。師父は何も言わず、ただ引き続きラーメンを召し上がった。当時私は、ただ師父の次元は本当に高いと思っただけで、どうしたらそこまで到達できるかはわからなかったが、今になってやっとわかった。以前、私は心の中の恨みを放下できず、かつて私をいじめた人、または私に対して不公平を働いた人を恨んでいた。法理が分かってから、私は肩の重荷を下ろしたようで、心の底からこれらの人達を許すことができた。

 翻訳者注1:「真」に気が狂った意味での「真」ではなく、「真に修める」ための「真」という意味です(『転法輪』)。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/29/115424.html