日本明慧
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文/大陸の大法弟子 【明慧ネット2005年11月27日】私は94年に法を得た古い学習者であり、今年78歳です。年寄りで文化レベルも低いのですが、法は早く得ており、普段から大法に照らし合わせて自らを律し、また6年間の血生臭い苦難を経てきて、大事では是非を判別することができますが、いくつかの小さな出来事で人心が表れました。 2005年9月、兄が重病になったので私は何回もお見舞いに行きました。兄は私の前で、細かなところまで気を配って世話をしてくれる彼の子供たちを自慢し、とても感心していました。当時それを聞いて「もしある日、私もこのようになったら私の子供たちもこのように世話をしてくれるだろうか?」という一念が生じてきました。兄が亡くなった後、家族は非常に嘆き悲しみ、声を上げて泣いていました。その情景を見た私は、また数年前に妻を亡くした時のことを思い出し、心の中に常人の様々な哀悼の気持ちが戻って来て、もっと辛くなりました。墓地に埋葬する時、ある人が「兄の兄弟2人に場所を残さなければ」と言いました。その時私は「兄弟は必ずしも帰ってくるとは限らないので、残さないで」と言いました。この時、私は心の中で「自分が帰って来られるかどうかは別だ」と思いました。 同時に、私は自らの考えに気づきませんでしたが、修煉者としてはすでに法から離れていました。自ら探さず、正念でそれを取り除かなかったため、別の空間の邪悪が隙に入って、私の体を迫害し始めました。全身が無力状態になり、歩くのさえ難しく、4階まで上がるのに休憩が必要で、耳鳴りがし、声がかすれ、息苦しく、咳が出る等の症状が現れました。私は、大法弟子は病気がないのに、これらの症状は別の空間の邪悪が自ら執着を利用して迫害しているのだと考えました。まるで師父が教えてくださったその通りです。「この世で常人の中で修煉するのが大法弟子の修煉方式であり、しかも修煉の中で人の心を直に指摘するのだと皆さんはすでに分かっています。人間の執着と、法を証明し衆生を救い済度することを妨害する観念はみな、取り除かなければならないものです。神の道を歩んでいる修煉者にとって、これら常人の心の執着を取り除き、これらの観念を変えることはそれほど難しいことなのでしょうか? もし修煉者がこれをも取り除きたくなければ、修煉者としての現れはどういうものなのでしょうか? もちろん、こういう情況にいる多くの弟子は実は最初、自分にある軽い執着または観念の妨害に気づくことができず、邪悪に隙に付け入られ、妨害の要素を強められたから、このようになったのです」(『最後になればなるほど、精進すべき』2005年10月8日)。 その時、心の中では、自らは何年も修煉してきたのに、まだこんな状態が出ることが悔しくてなりませんでした。同時に、本当に恩師の慈悲深い済度に合わせる顔がなく、同修者や自分自身にも申し訳ないと思って、精神的に圧力を感じ、同修にどう話せば良いか分からなくなりました。 この時、私は師父の「正しい念正しい行い 精進して止まない」(『正神』2002年5月30日)の教えを思い出しました。それから法を学び、同修達と共に法を学んで、認識を高め、自分の足りないところを探しました。正念を強めて、同修者たちの助けで、法理に基づいて心性を高め、全面的に旧勢力の迫害を否定して、師父の加持の下、正念で別の空間の邪魔を一掃しました。それによって良くなりつつあり、同時に修煉は厳粛であることを深く感じており、いつでもどんな時でも法に従わなければならないことを認識しました。真に正しい念で正しい行いをして初めて、本当の正法時期の大法弟子になるのです! 個人の悟りですので、不適切なところがあればご指摘お願いします。 |