崇拝する心を取除き、法の中で精進する
【明慧ネット2005年12月3日】師父は「法を以って師とする」ことを説かれた。しかし、「崇拝心」の問題はずっと存在している。ある同修が法を学ばず同修に学び、邪悪に隙に乗じられ、衆生を救うことに損失をもたらした。これらは深い教訓となり、私たちが心を静めて法を学び、真剣に自分を探さなければならないことを戒めた。
私は1999年3月に法を得た。学法をしっかりしていなかったため、苦難がきた時、それが邪悪の妨害であるのか、それとも自分の突破しなければならない関であるのかをはっきりと区別できなかった。だから法理をはっきりと理解できていなかったし、執着心はつよい。
2004年の初め、私は同修Aと知り合いになった。何回か接触して、同修Aはとても精進しているように感じた。法理をはっきり理解でき、正念はとても強く、悟性も良いと思った。毎日、師父の要求されている三つの事をしっかりと行い、家の環境も良かった。家族は皆大法の真相を理解できており、皆彼女が大法の仕事をすることを支持していた。私はこの同修がまったく完全無欠であると感じた。そして知らず知らずのうちに歓喜心、崇拝する心、依存する心を生み出し、何かがあったらすぐ彼女を尋ねて行き、私は彼女を修煉の模範とした。そのことが自分の人心が揺れ動くのを招いて、心を静めて法を学ぶことができず、同修の経験を模倣した。
息子が、大学入試が始まる1カ月前、風邪を引いた。薬を飲む問題で同修の経験(黒い手を取り除く)を模倣して、親心に動かされて、息子に法を得させようと焦り、何度も息子の治療に干渉した。息子の心性の高さと受け入れ能力を考慮していなかったので、息子は私に対する恨みを持った。この事は常人である息子に対して一定のマイナスな影響をもたらした。
それからしばらく長い間、息子は大法に対して抵抗感をもった。彼に真相を話しても、彼はこれらのことに耳をかそうとはしなかった。自分はどうしたらいいのか分からなかったので、また同修を尋ねた。同修の言うように行うと、また行き詰まった。このようにして自分は崇拝する心、依存する心、親心など各種の執着に邪魔されており、すべてめちゃめちゃになり、自分でもこのような状態は正しくないと感じた。これは修煉者の状態ではない?どうしてこのようになったのか?
私は、偶然、師父の『道』という経文を読み、同修の経験を模倣するべきでないことを理解した。自分の修煉の道は自分で歩むべきである。同一の事は同修がそのようにすれば正しくても、その他の同修には適さないかもしれない。修煉は模範がないので、同様に処理すればよいとは限らない。しかし、やはり自分の根本の執着を探し当てていなかった。常に真剣に内に向って自分を修めていなかった。いつも常人との対立が発生する時には、相手の欠点、誤りを見るばかりだった。常人の欠点を探すことから同修の欠点を見るまで発展した。心の中は穏やかではなくなり、それから邪霊に隙に乗じられ、1カ月ほど深刻な迫害を受けた。師父の加持と、同修の助けのもとで、自分の根本的な執着を見つけた。「外に向って探し、自分を修めない」を認識した後、邪霊を取り除いた。
これらの教訓から、私は目覚め、自分の崇拝心、依存心、外に向う求める心を認識した。しかしまだきれいに取除かれてはいなかった。
師父は『道』という経文の中で、私達にていねいに教えてくださった。「修煉者にとって、模範はなく、各人の歩む道も異なっているのだが、……苦難を前にし、いかに行動すべきかは、すべて自ら悟らねばならぬのだ」。私たちは法を正す時期の大法弟子であり、私たちの歴史的使命は大法を実証し、衆生を救うことで、私達の責任はきわめて重大である。また常人の中で修煉しているから、師父は私たちが常人の状態に合わせて修煉するようにと教えてくださった。まず良い人になって、すべての人に対して慈悲になるべきで、家族に対して自分の尽くすべき責任を尽くさなければならない。常人に対して、私たちは真相を説明し、善を勧めることしかできなくて、親心に動かされ、決して彼らに法の学びや「薬を飲ませない」などを強要してはいけない。私たちは必ず師父の教えに従って行い、それは常人に合わせて行わなければならない。さもなければ常人は私たちを理解することができない。甚だしきに至っては私たちを恨んで、衆生を救う目的を達することができないだけではなくて、彼らを駄目にするかもしれないのだ。
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2005/12/3/115721.html)
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