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11月:19人の法輪功学習者が迫害されて死亡

 【明慧ネット2005年12月6日】2005年11月に、19人の大陸の法輪功学習者が迫害されて死亡したことが証明された。中共と江沢民集団が99年7.20から現在まで、公に法輪功を迫害してから、すでに2790名の学習者が迫害によって死亡したことが民間のルートで証明された。

 19人の中で、女性の学習者は11名で、58%を占め、55歳以上の高齢学習者は7名で、37%を占めている。そして実例の中で14名は2005年中に迫害されて死亡し、さらにその中の6名は2005年11月に迫害されて死亡している。明慧ネットの資料統計によると、2005年1月から11月までの間に、すでに380名の学習者が迫害されて死亡した。

 死亡者のうち4名は70歳をすぎた老人だった。最も若いのは李洪鵬(27歳・女性)さんで、元天津市飛鴿自転車工場の職員だった。彼女は2000年9月に北京へ法輪功のために陳情した際、警察に不法に逮捕され、脳水腫になるまで殴られ、頭部が全体的に腫れ、顔面も変形し、眼は黒紫で見えなくなり、自力で生活することができなくなって、2000年12月末に死亡した。

 11月に19人が迫害により死亡した事件は、大陸の10の省と市で起きた。吉林省4人、黒竜江省3人、河北省、山東省、河南省、四川省は各2人、湖南省、江西省、天津市、陝西省は各1人が死亡した。

*吉林省長春市の王守慧さん、劉博揚さんは二週間以内に迫害されて死亡

 吉林省長春市の法輪功学習者・王守慧さんと息子の劉博揚さんは、2005年10月28日に長春市寛城公安局に捕まり、劉博揚さんはその日の夜に虐殺された。母の王守慧さんは尋問された後に双陽看守所に移された。11月10日に王さんの家族は「王守慧は心臓病の発作で、中日友好病院で死亡した」と告げられた。情報筋によると、王さんはまだ身体検査をされておらず、顔と両眼は青紫色になっており、左の耳に血痕が残っているという。

 王守慧さん(57歳)は、元幹部であった。息子の劉博揚さん(28歳)は、王さんの唯一の息子であり、吉林省医科大学を卒業し、現在、長春市前衛病院で医師として勤めていた。2005年10月28日午後、親子は長春市寛城公安局の警察に尾行され、捕まった。劉博揚さんはその日の夜に拷問され死亡。10月31日に家族は警察からの電話で「劉が6階から飛び降りて死亡した」という知らせがあった。ところが、現場で見た遺体の状況は電話の知らせとは大きく食い違っていた。劉さんの頭部には墜落した痕跡がまったくなく、三つの違う方向から強く打たれた痕跡がはっきりと見られ、肋骨と足の骨は骨折しており、肺には鬱血があった。

 王守慧さんは捕まった翌日に双陽看守所に移された。11月10日に家族は「心臓病の発作で中日友好病院に死亡した」と告げられたが、数多くの疑問点が浮上した。一、病院で死亡したのなら、なぜ病院から知らせなかったのか? 二、王さんはいまだに身体検査を受けていないのに、どうして心臓病発作だと分かったのか? 三、顔と両眼の色が青紫になり、左の耳に血痕が残っているのはなぜか?

 王守慧さんは三人家族で、全員1995年から同時に法輪功を修煉し始めた。1999年7.20以後、王守慧さんは法輪功の真相を中央政府に伝えるために上京した。そして、1999年と2000年の二回、不法に身柄を拘束され、労働教養をさせられた。黒嘴子労働教養所で8回も電気棒で電撃された。毎日重労働を強いられ、120時間にわたって立たされ、睡眠を許されなかった。「死人ベッド」にも数回縛られ苦しめられたが、結局、危篤状態に陥ったため釈放された。

 彼女は2002年4月11日に長春市公安局に拉致され、当地の看守所で監禁されていた。監禁中に彼女は残酷な拷問によって迫害され、胸を棒で電撃された。三人の看守は彼女の胸や背中および顔を滅多打ちにした。その結果、彼女の頬は骨折し、大量に血を吐いたりした。その後、肺に感染をおこした。そして病院に監禁されていた5日の間、トイレに行くことさえも禁じられていたため、失禁してしまうこともあった。

 2002年6月27日、王さんの家族は全員正陽派出所に拉致され、長春市第三看守所に監禁されていた。そこで18日間にわたり、両手と両足を手枷と足かせで一緒に掛けられ、強制的に「灌食」(拷問の一種、ゴムパイプを鼻から胃袋まで挿し込んで強制的に食べ物を押し込む)された。一ヵ月後、また危篤状態に陥ってからはじめて釈放された。正陽派出所で劉博揚さんを苦しめたときに、一人の看守は劉さんを酷く殴打しながら、「法輪功の学習者を数人殺したことがある。お前たちを殺しても何の責任を負わなくてもいいのだ!」とわめきたてた。

 2002年10月29日、劉さんは不法にも2年の労働教養を言い渡された。期間が満了しても釈放されず、看守所は何らかの口実を見つけ、1ヶ月半の監禁期間を延ばした。

 劉さんは温厚で、人と争ったためしがない。彼の死について職場の全員が心を震わした。

*河南省の董紅強さんは不明な薬物を注射された後に死亡

 河南伊川県の董紅強さんは何回も伊川県「610オフィス」、公安局政保課に留置され、三年半の判決をうけ、新密労働農場で苦しめられ、心神喪失になり、冤罪を晴らせずに死亡した。

 董紅強さん(40歳、男性)は、河南伊川県城関鎮西倉村の人。大法の修煉を続けたため、県610オフィスと公安局政保課は董さんが真相資料を配ることに参与したと疑い、連行して留置した。それから一年間監視した。董紅強さんは路頭に迷うようになった。悪警官は絶えず追跡し、何回も彼の家族を捜査し、彼の一家は離散するに至った。2002年3月から4月の間、県610オフィスと公安局は法輪功にする迫害を強め、告発、監視、追跡などの手段を使ったので、董紅強さんはまた連行されて留置された。不法に3年半の判決をうけ、河南新密労働農場で迫害にあった。

 情報によると、労働教養期間中、董紅強さんは何回も悪警官にめった打ちされ、4、5人に強制的に不明な薬物を注射された。その後、身体は虚弱になり、お腹に腹水が溜まり、心神喪失になった。董紅強さんは苦しめられ、骨と皮ばかりになり、お腹はかなりふくらんで、呼吸も困難になった。

 2005年8月中旬、悪警官は家族に董紅強さんを労働農場に迎えに来るよう通知した。家族は董さんを病院へ連れて行ったが、医者からは治療できないと確定され、2005年11月9日に冤罪を晴らせずに死亡した。

*黒竜江省の70歳の老人の孫国珍さんは6年も迫害された後に冤罪が晴れずに死亡

 黒竜江省双城市の71歳の女性法輪功学習者が修煉を堅持し、真相を伝えるため、何度も不徳な警官に不法にも拘禁され迫害された。2005年11月2日に冤罪が晴れることなく死亡した。

 孫国珍さんは2000年4月北京で真相を伝え、大法を証明した。警官に連行され、双城第二留置場で一ヶ月以上も不法に拘留され、迫害された。老人が法輪功を堅持したため、洗脳班でもまた一ヶ月もの間迫害された。2001年1月17日(旧暦12月23日)に、孫さんは家で本を読んでいた。再び不法に連行され、洗脳班で何ヶ月も迫害された。老人は湿っぽくて、冷たいコンクリートの上で寝ていたので、脳血栓の症状が出た。だが、「三書」を書かないことで邪悪の要求を排斥していた。老人は彼らに道理を説明したが、鬼のような警官は老人を紐で椅子にくくり付け、老人の顔を殴ったり、足を蹴ったりした。

 孫国珍さんは洗脳班で苦難を嘗め尽くし、心臓病が再発し、危篤状態だった。当時、市委員会書記の朱清文氏の指示のだが、610オフィスが指示し、法輪功学習者を数百人連行し、洗脳で迫害した。留置場もいっぱいだったので、不徳の警察官は、旧暦12月27日(2001年1月21日)に法輪功学習者を労働教養所80人を送りたかった。同年5月、警官らは不当にも孫さんを見地党校へ連行して迫害した。外に出た瞬間、老人は倒れた。親族が正義で恐れずに厳しく非難したが、警官に400元をゆすられ、やっと釈放した。

 2003年春、老人の孫国珍さんは大法の真相スローガンを貼りに行った。悪人に告発され、さらに300元をゆすられた。何度も迫害され、孫国珍さんの身体はだんだん虚弱になり、回復することもなく、2005年11月2日冤罪が晴れず死亡した。

*山東省煙台市の于正紅さんは迫害されて死亡 家族は真相を暴露

 于正紅さん(43歳・女性)は、山東省煙台市文登市宋村鎮寺前村人、法輪功を続けて修煉したため、2005年11月17日に迫害されて死亡した。以下は彼女の夫の周承莎さんが于さんの死亡した経過を暴露したものである。

 「私の妻の于正紅は、修煉する前いろんな病気を患っていた。農村で病気になると、治るまで2、3カ月かかっていた。ご飯も作れず、農作業もできなかった。私は家で妻の世話をするしかなかった。ご飯を作って、子供の世話もしていた。妻の病気を治療するため、家のすべてのお金を使った。私の一家は苦しい生活をしていた。

 妻は1997年夏から法輪功を修煉し始め、身体は段々よくなってきて、すべての病気がなくなった。家事もできるし、工場へ働きに行くこともできるようになった、家の生活もだいぶよくなってきた。私たちは大法の師父が教えてくれた真・善・忍の法理に従い、道徳基準も高くなった。特に私は以前、誰でも殴ったり、罵ったり、村のボスのようだった。妻が法輪功を修煉してから、私もだんだんよくなった。

 しかし、よいことは長くなかった。1999年7.20以後、法輪功は無実の罪で迫害を受けた。その年の10月前後のある日、晩10時すぎ、文登市宋村鎮派出所の刑樹武、于金成が家に踏み込み、李先生の写真と大法資料を全部奪い、妻を連行した。寒い中で妻は48時間も椅子にしばられた。私は釈放を求めに行ったが、彼らは私に「これから、妻に煉功させない、陳情に行かせない」の保証を強いたので、私は本心と違ったものを書いた。それから妻が笑うことはなかった。

 2000年6月、妻は北京へ大法と師父のために陳情に行った。しかし、陳情はできずに、文登駐北京オフィスの李英林などに逮捕され、文登拘留所へ送り込まれた。そこで「三ツオン」と呼ばれる警官に殴られ、侮辱され、15日間拘禁された後に、文登宋村派出所に送られた。当日、日暮れになった後に、村支部書記が三書(注)を書いて釈放した。翌日、向洪平などは脅したりすかしたりして妻を宋村にある映画館の洗脳班に送り込んだ。妻は絶対参加しないといった。

 同年の秋、忙しい季節で、妻が夕方家に戻って来るとすぐに、向洪平、于金成らがまた侵入して妻を連行し、文登拘留所で半月くらい拘禁した。その後、戻ってきて何日も経たないうちに、また逮捕された。途中で妻は彼らに、「なんで殺人や放火などをほっといて、殴られても殴り返さない、罵られても言い返さないよい人を専門に迫害するのか」と聞くと、向洪平は「殺人や放火のことに干渉する勇気はない、うまくしないと自分がやられる」と言った。このようにして、妻はまた宋村映画館で十数日間拘禁された。彼らは私に3000元請求したが、私は2000元を借りて払って、やっと釈放された。

 2001年6月1日、子供の祝日で、妻は午後帰ってからごちそうを作ると言って出かけた。しかし、昼になって妻の自転車だけ戻された。妻は帰り道で、文登610オフィスの10数人に連行された。子供は祝日なのに、母とも会えなかった。幼い子供を見ていて、私の心は刀で切られたようだった。妻は向宏平、畢建偉、桑洪波などがやっている洗脳班で迫害された。苦しめられて持病が再発した。私は釈放を要求しに行ったが、彼らは「拘禁する権利があるが、釈放する権利はない、なにかあったら『政府』に話せ」と言った。

 文登整骨病院はこの6年、ずっと大法弟子を迫害することに加担した。今回整骨病院の主任は検査してから彼らに「于正紅さんの生命は危篤だ、早く釈放しないと死んでしまう」と言った。その後、彼らはやっと釈放した。

 私は妻を背負って出てきたが、すでに息絶え絶えとなっていた。しかし、法輪大法はまた妻を救った。その年の10月1日の前に、やっと仕事へいけるようになった。文登610オフィスと派出所の10数人は不法に家財を没収し、大法書籍を全部没収した。妻は仕方なく路頭に迷った。家があるのに帰れない。

 2003年9月彼らは威海で妻を見つけ、住居に踏み込み、文登拘留所に拘禁した。妻は、絶食して抗議したので、4日目に整骨院で食物を注入された。8日目に2年の労働教養を言い渡され、身体検査を受けたが、済南留置場は断り、シ博留置場も断ったので、仕方なく家に送られた。でも彼らはいつも家に押し入り、家の中をめちゃめちゃに荒らした。

 今年9月27日朝6時半頃、子供はまだ学校へ行ってないのに、文登610オフィスの劉、向洪平、孫国海など10数人が突入して、家財を没収し、再び妻を連行し、文登留置場へ送った。彼らは卑劣な手段で妻に修煉を放棄するように強いた。妻は絶食で抗議し、12日目に整骨病院で食物を注入され、14日目になって、すでにだめになり、文登病院へ送られた。病院は家族に連絡するようにと要求したが、610オフィスは許可しなかった。

 検査結果は、高血圧と深刻な心臓病だった。15日目に留置場で死亡する恐れがあると、彼らは仕方なく釈放した。妻は家に帰ってからもずっと回復せず、2005年11月17日に冤罪が晴れずに死亡した。当時43歳だった。

 于正紅さんは迫害されて死亡した。江沢民集団の迫害政策に従う文登市委員会書記の姜貸敏、文登市公安局610(現名は国保)、直接迫害に手を出した向洪平、孫国海など悪らつな警官は罪責を免れない。私たち家族は関連職員の法的な責任を追及する、「私たちに正義を返せ!」。

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 すべての実例は血の債務である。因果応報、借金は必ず返さなければならない、天理はこのすべてを制約している。中共と江沢民集団が法輪功に対する絶滅の迫害の中で借りたすべての血の債務は全部返さないといけない・この日はだんだん近づいてきている。(明慧=記者・黎鳴)
(注)三書(保証書・決裂書・批判書):三書とは、法輪功を修練しない保証書、信条を放棄する決意を示す決裂書及び法輪功を摘発するための批判書のこと。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/12/6/115908.html