日本明慧


怖がる心理を取り除くことと、安全性に注意することは矛盾しない

文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2005年11月26日】怖がる心を除去することと、活動の安全を重視することとは、完全に異なる二つの概念である。大法弟子は法を実証する中、最大限に常人社会の状態に符合して修煉しなければならない。

 常人の理から見ると、大法と大法弟子は常人社会の中で邪悪な迫害を受けており、悪党はすべての弾圧の機械を掌握しているのに対して、大法弟子はいかなる宣伝の道具もないのである。表面から見ると、悪党は弱者層を弾圧していることになる。師父は「次元の高い覚者ほど常人の理を壊しませんし、まったく干渉しないのです」(『転法輪』)といわれました。もし真相を伝える活動の安全性を重視しないで、ただひたすら無理して怖がる心理を除去したり(怖がる心理とは法を実証する中で修煉によって除去するものであり、真相を伝える活動における安全性を重視しないことではない)、あるいは無理して怖がらない態度を強調したら、常人から見れば理性の欠けた行動にしか見えないのである。

 大きな隙があるとき、あるいは状態がよくない時、冷静によく法を勉強し、正念を発し、自分をうまく調整すべきである。なぜならこういうときは、真相を伝えても、法を実証してもよい効果が出せないし、無駄になるかもしれない。もし続けて理性的でない状態が続けば、ただひたすら無理して真相を伝えることになる。あるいは恐くないことを理由にしても、結局三つの事を全部しっかりと行っていないことになり、つまり法をよく勉強していない、自分をよく修煉していない、自分には漏れがあることで、すでに法から離れていることになる。それでは常人が大法の事をやると同じようになり、この時正念を発しても効果がなくなり、ついに邪悪に隙に乗じられて損失をもたらしてしまうのである(邪悪は漏れのある、無理して強がって真相を伝える大法弟子が常人の理を破壊したとの口実で大法弟子を妨害する)。片方では、大法弟子の特殊な修煉の形式のため、常に人間が修煉しているので、永遠に漏れがないことはあり得ないし、時には意識もしない漏れもある。これらの漏れはまた邪悪が隙に乗じる原因になる。そのため真相を伝えるときにおける安全性を重視することで、ちょうどこの「一時の漏れ」を補うことができるようになる。

 一部の同修は、他人から安全のことについて注意されたり、(連絡する方法:例えば、資料を渡す方法、電話の連絡方法、真相を伝える方法など)必要な安全な措置をとるべきだと言われる時、自分を注意する人には怖がる心理があるのだと言い返し、自分の問題を内に向かって探していない。いつも「正念が強ければ問題がない」とばかり強調している。だが一部の同修は「正念」には非常に深い内包があるということを見落としている。必要な安全形式を注意しない時、すでに常人社会の理を破壊していることになるため、すでに一つの隙になっているのである。

 時間が長くなると、意識することもできなくなった。それでは「保険をかけた」ようではないか?それでは「正念が強い」とは言えないのである。邪悪に迫害される最大の口実ができたのではないか?だからこそ怖がる心理を除去すると同時に、必要な安全形式を否定してはならないのである。「明慧ネット」は何度も真相を伝える際に有効で安全な方法を紹介している。これはただ迫害に対抗し、損失を減らすことだけではなく、法を実証することにとっても必要である。

 (注:安全の形式に注意することは自分を保護するため、迫害を恐れるためではなく、よりよく師父が按排してくださった法を実証する道を穏やかに歩み、最大限に衆生を救い済度するためである。いったん迫害されると、衆生を困惑させ、衆生がさらに済度しにくくなり、全体に法を実証するにも妨害をもたらしてしまうからである。)

 適当でないところについて、慈悲の指摘をお願いします。

(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2005/11/26/115187.html