日本明慧
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文/河南大法弟子 【明慧ネット2005年12月8日】私は94年に法を得たが、様々な原因で、グループの勉強会に一度も参加しなかった。99年7.20以後、私がいる県では、人は少ないけれど、恐怖心があったので、一度もグループ勉強会を行わなかった。私は今年の7月に、初めてグループ勉強会に参加した。地区の外でのグループ勉強会だった。当時、グループ勉強会に参加しに行ったとき、恐怖心を抱いていた。学法と交流の間、ずっと恐怖心があり、警察が突然入ってくることや再び労働教養所へ送られることを心配していた。グループ勉強会に何回も参加し、一度法会に参加した後、私の恐怖心は段々弱まってきた。修煉形式に対する認識も段々成熟してきた。どのように迫害に反対して、どのように三つのことをうまく行うかについて理性的に認識でき、心理状態も段々安定してきた。そして正念も段々強まってきた。グループ勉強会という環境は確かに人を精煉することができ、修煉者に自分の不足と距離を見るように促すことができる。この場に溶け込むと、弟子は理性的に大法を認識し、この迫害の中でますます理性的に行える。 グループ勉強会で迫害の中での重要性を認識した後、帰って地元で学法チームを作った。この一年間あまり会わなかった同修も、学法で交流した時に「私は恐怖心を抱いてきました。学法チームに妨害をもたらすことを恐れていましたが、この環境に入ると、一気に様々なよくないものが消えたと感じました。この環境は本当に得難いですね」と言った。 学法と交流はグループ学法の二つの重要な部分である。学法は大法弟子が向上する根本的な保証で、交流は弟子に三つのことを行うことについて更にはっきりと認識させる。ある日、皆で旧勢力は一体何なのかということについて交流した時、一人の年配の同修は言った。「何年経っても何が旧勢力なのか、分かりませんでした」もう一人の同修は「旧勢力は江XXだと思っていました」と言った。交流を通して、皆は迫害の中でどのように全面的に旧勢力を否定するかについて更にはっきりと認識できた。 師父は『洪吟「実修」』の中でこう書かれている。 「法を学びて法を得る
学んで比し修して比す 事々く対照し 做すところ到るは是れ修」 グループでする学法と煉功は「学んで比し修して比す」の環境で、迫害の特殊な環境の中、全体を協調し、邪悪を暴露し、邪悪を制止し、衆生を救う作用を果たす。まだグループ学法を重視しない同修、あるいはグループ学法チームができていない地区は、重視すべきだ。師父は私たちに最も素晴らしく行うように要求し、私たちの修煉の向上に、三つのことを行うのは最も有益であり、これも師父が私たちに教えた未来へ残す最も正しい道である。私たちは弟子として、これを守って実践するしかない。 もちろん、私たちはグループ学法を行うとき、必ず知恵をもって、安全に注意し、邪悪に乗じられるような隙がないようにしなければならない。 個人の悟りであり、不足のところは慈悲にご指摘をお願いします。 合十 |