明慧ネット:編集と校正の仕事について
文/西洋人大法弟子
【明慧ネット2005年12月8日】(訳文)まず、明慧に投稿したすべての同修に感謝します。彼らの投稿文の一字一句が、私の修煉にとって大変有益なものでした。いくつかの迫害事実での邪悪の残虐な迫害行為は、私の吐き気を呼び起こし、いくつかの修煉体験は私を深く考えさせ、私を大法弟子の道で精進させました。いくつかの投稿文は、まさに私のために書かれたかのように、何日たっても私の脳裏から離れることはありませんでした。
一人の文章編集者・校正者として、私は同修たちの間の距離が非常に近いように感じます。千里遥々離れた同修が悟った法理や体験を文章にして、まず私たちと出会う。そして翻訳組の翻訳を経て、私が校正する。このように、みんなが一緒に明慧ネットの仕事をそれぞれ担当していることに非常に感謝し、これはまさに私へのプレゼントのように感じます。自分は千里遥々から投稿してきた同修と、明慧の読者との間をつなぐ作用を果たしているように感じます。
私の住む地域には大法弟子はいませんが、一度も孤独を感じたことはありませんでした。
一人の編集者・校正者として、私は同修の翻訳した文章を尊重しなければならないと思います。もちろん、私はスペルの間違いや文法的な間違いを修正しなければならない。それと同時に、私はあまり英語化しすぎないように、原文の意味を誤解しないようにと注意してきました。時には、私自身もはっきりと、もし自分がやっても、そのようには翻訳しないとわかっていても、文法や文章における表現が正しければ、できるだけ原文をそのまま保留するようにしています。
時には、私は一つの文章をさらに読みやすく、綺麗な表現で構成するようにしたいと思いますが、校正しなければならない文章があまりにも多いため、それぞれの文章を細かく修正することができません。しかし一方、私は翻訳するとき、できるだけ作者の法理に対する理解と原文の格調を尊重するようにしています。同修の中には、すばらしい文章を書く人もいれば、そうでない人もいます。これらの差異は文章の格調から読み取れます。そのため、最初、これらの問題をどう解決すべきか分かりませんでした。しかしやっていくうちに、すべての文章にとって最も重要なのは、格調の高さではなく、それぞれの文章はいずれも「真・善・忍」を表しているのだ!ということです。これこそが文章を読むとき、読者を感動させる原因です。
私はできるだけ文章が流暢に書かれているように校正してきました。翻訳レベルの低い文章だと、フランス人の一部の読者に誤解を与えてしまうからです。
一般的に、いったん明慧の文章の翻訳を決めたら、その文章を読者が読めるように責任をもつべきだと思います。当たり前のように思えますが、たくさんの良く翻訳されている文章をなくしたため掲載できなかった問題がありました。これでは文章の作者、翻訳者および文章を読めなかった読者にとって大変失礼なことであり、また私たちの仕事のあるべき意義を失わせるのです。師父は『プラハ法会へ』の中で「大法弟子が行うべき三つのことをしっかり行い、法会を成功させ、実のあるものにしてください」とおっしゃいました。
私にとって、師父の言葉は明慧の仕事にもあてはまると思います。翻訳された文章が、もし発表できなければ、あるべき作用を果たさなくなります。翻訳とは常人の仕事ではありません。私たちは自分たちが常人の中の能力を向上させ、自分の翻訳がいかにすばらしいかを強調するのではなく、自分のためにやっているのではありません。私が悟った明慧の仕事の主要な目的とは、すべての邪悪を暴き、真相を伝え、一切の衆生を救い済度することです。これは非常に厳粛な使命です。これは私たちの責任です。明慧ネットの仕事は、私たちの修煉にとって非常に有益ですが、私たちはその目的を忘れてはならない、すべての訳された文章が発表され、読者に読まれるように保障しなければならないのだと思います。
個人的な理解であり、適切でない部分は修正を望みます。
ありがとうございます師父、ありがとうございます同修
(2005年明慧ネット関係者修煉心得交流文章より)
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/12/8/116002.html)
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