日本明慧


師父が初めて山東冠県で法を伝えられたときの思い出

文/大陸の大法弟子

  【明慧ネット2005年11月18日】1992年11月11日、師父は山東省冠県に来られ、冠県の大勢の弟子のために宇宙の根本的な大法を与えてくださった。当時、現地の人々が師父と法輪功を知らなかったので、師父は人々に法輪功を教えるため、冠県映画館で気功講演会を開き、また「老幹部活動センター(注:定年退職した幹部らの集いの場、以下センターと略)」で病気の相談と治療を3日間行った。

 14日午前、寒く、北風が吹いてちょっと肌寒かったが、私は2人の友達とセンターに着いた。人がごった返しており、病気を治療しに来る人が絶えなかった。ある中年女性はたくさんの疾病を患っており、1988年から仕事を休んで家で療養し、最もひどい時には夫も1年半仕事を休んで家で彼女の世話し、彼女の病気を治すために様々な方法を試してきた。聊城専門病院・山東省立病院・北京協和病院・北京301病院などに何度も行ったことがあり、さらに巫術(シャーマニズム)に頼ったこともあるが、すべて何の効き目もなかった。病状はますます重くなる一方で、立つことさえ困難だった。160センチぐらいの背丈なのに、体重は32キロにも満たないほどで、毎日生死の境をさまよっていた。彼女は試してみようという気持ちでやって来た。

 10時過ぎに彼女の順番が来た。母屋の西棟の入り口で、師父は彼女を頭から足まで暫く眺めた。そして、彼女に目を閉じて、上半身を少し曲げるようにと言った。そして右手を振って、頭から足までたたいた。音はとても大きかった。約2分間、この女性の顔から汗がいっぱい出た。師父は彼女をまっすぐ立たせた後に、彼女に何を見たのかと聞くと、彼女は目の前が真っ暗だと答えた。そして師父は彼女に目を閉じさせ、そして開けるようにと言った。

 その時、彼女はたくさんの他の空間の殊勝な光景が見えた。しばらくして彼女が再度目を閉じた後に開くと、師父が人々の病気を治すほかの場所に自分がいることに気づいた。彼女はすぐに師父の偉大さが分かった。彼女は感動し、体が熱くなり、師父を見て何を言っていいのか分からずにいた。

 しばらくして、彼女は5、6年間自転車に乗っていないと言ったので、師父は「自転車に乗りなさい。速くこげばこぐほど、早く治る」と言われた。ご主人は彼女を乗せて来た自転車に彼女に乗ってもらい、彼女は庭の中央にあった大きな花壇を回って、子供のように喜んでいた。そして自転車に乗って家に帰った。

 この女性は家に帰った後、久しぶりに家事をした。体に力がみなぎるのを感じて、夫に数年間使わなかった自転車に空気を入れてもらい、翌日から自転車で出勤した。夫は「この自転車はもう何年も乗っていないから、空気を入れるところのバルブは大丈夫か確認してみよう」と言って、タイヤの空気を全部出してからバルブを抜いてみると、バルブの周りにあるはずのゴムがすでになくなっていた。それでも後ろのタイヤは前のタイヤと同じように空気がたくさん入っている。夫婦2人は大変驚いて、非常に不思議に感じた。

 11月16日夜7時、法輪大法の冠県第一回勉強会が冠県会議室で行われた。人数が多かったので、二回目は冠県醸造所の会議室に変更した。冠県の人はとても純朴で、勉強会が始まった後のある日の午前、ある中年夫婦が命の恩人に礼をしたいと思い、師父を家に招き、食事を招待しにきた。彼女は賃貸アパートに住んでおり、大家さんは大きな黒い犬を飼っていた。師父が庭に入った時、黒い犬はほかの人を見ると歯を剥き出していたが、師父を見たとたん、頭と尻尾を振りながら、地に伏せて鳴き声も出さなかった。

 師父が家に入られると、家には師父を一目見ようと集まってきた人たちでいっぱいだった。その中のある人は師父に自分の根基が良いかどうかを聞いた。師父は「根基は悪くない。しっかり修煉してください」と言った。ある人も聞きたかったが、口には出せないでいた。師父は彼を見て「上士、道を聞けば、勤めて之を行う」と言われた。

 食事が始まり、料理は盛りだくさんだった。ある人は師父に料理の味がいかがと聞くと、師父はどんな料理を食べても同じ味と言った。料理を取った時、師父は左手で受けて、食卓に料理が落ちたら、拾い上げて口に運んだ。その時、皆師父が身をもって法を伝えていることを理解した。

 食事が終わって、師父は私達と一緒に記念写真を撮った。集合写真を撮りたい人や、師父とのツーショットを取りたい人がいたが、師父は皆さんの要求をすべて満たした。このことを思い出すと、ますます師父の親切さを感じる。

 今度の勉強会で師父が私達に与えたものはとても多かった。しかし私達はただの40元の授業料だけを払い、途中で入った人は20元だった。冠県の宋さんは山東第一女子労動教養所で悪らつな警官に騙され、師父が一人100元を徴収したと言った。これは嘘だ。ある日の講義の前に師父がおっしゃったことを覚えている。この法は人に伝えるので、いくつかの深く隠れている憑き物は人に連れられて入ってきたが、早く人間に生まれ変わってから、この法を得に来るようにと師父はおっしゃった。しばらくして、それでも行かないものは一掃されると師父はおっしゃった。師父がちょうど言い終えたとき、5、6人の学習者は吐きそうになっていた。彼らが講堂の入り口に立つと、憑き物はすぐに行ってしまった。再び席に戻ってきた後は、普段と変わらずに法を聞き、何も起こっていなかったかのようだった。

 すべての人は根基が異なるので、勉強会での反応も異なっている。ある学習者は4回目の授業から来たのだが、他の人が結印して目を閉じて座るのを見て、彼女も結印して目を閉じると、天目がすぐ開いた。師父が立っているところに山・川・亭(注:庭園にある休憩用の建物)・楼閣などがあり、最後に師父が大仏であるのが見えた(この学習者が開封で交流会に参加した時には、会場にたくさんの大きな法輪と小さな法輪があるのを見た)。

 冠県の勉強会は最初10日間と決まっていたが、途中で7日間に変更された。師父が弟子の体を調整するために放されたエネルギーは強くて激しいもので、私達は体が熱くなったと感じていた。私自身は受講している間、大半の時間はずっとうとうとしていたので、本当のことを言うと、師父の授業があまり分からなかったので、後に法を勉強し、やっと師父の偉大さと慈悲を感じ取った。

 金曜日の午前、弟子たちはマイクロバスで師父と一緒に蕭城を見に行った。蕭城は冠県の北館陶鎮から東へ2.5キロの所にあって、面積が約1平方キロメートルの土城だった。話によると、漢の時代に蕭太后は20万人の部隊を動員して、一夜で作り上げたそうだ。城内は現在指名台と万人坑の遺跡がある。師父はここで、スカートと革靴を履いて頭にキジの羽をつけた女性統帥、遼軍などが見えたとおっしゃった。最後に、師父たちは西城門と指名台で記念写真を撮った。

 11月22日夜21時過ぎ、師父は自ら冠県指導センターに旗を授与した。授業が終わった後、みな師父と一緒に師父の宿泊先まで歩いて師父とお別れの最後の時間を過ごした。師父を引きとめて冠県での日程を延ばしていただこうと思っていたが、北京で開かれる東方健康博覧会の用意があるため、師父は23日朝5時過ぎに車で冠県を離れられた。

 北京に帰った後、師父はずっと冠県の弟子を気にかけていた。93年元旦、師父は冠県の弟子に年賀状を出された。私が聞いたところによると、年賀状の始めには次のように書かれていた。「故郷の弟子達、新年おめでとうございます」。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/11/18/114757.html

(English Translation: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/12/5/67559.html