日本明慧
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文/遼寧省朝陽大法弟子 師父は経文の中で、環境がますます緩やかになってきたとおっしゃった。しかしながら、各地では全く逆の状況が現われた。もちろん、これは邪悪がやったことである。しかし、これは正に私たち大法弟子全体が精進していないがゆえに、邪悪に悪事を働く機会を与えたと私は思う。 師父の「最後になればなるほど、精進すべき」との経文が発表されてから、明慧ネットでは多くの感想文が発表された。同修たちは皆「師父の経文を読んで、師父は正に私を指摘している」と思っている。私も師父の経文を読んで、最初はそう感じたが、師父が「一部の学習者」とおっしゃったのを見て、やはり普遍的なことではなく、それほど深刻な問題ではないと思った。 最近各地で大法弟子への迫害事例がかなり増えたにつれて、私はこの状況について地元の一部の大法弟子と交流した。皆は普遍的に、最近精進できなくなったと感じているようだ。皆と交流して家に戻ったら、私は一文字一文字、師父の「最後になればなるほど、精進すべき」との経文を暗記し始めた。はじめて気づいたのは「……数少ない一部の学習者、……」の後に続くのは「ひいては古い学習者も……」という文であった。中国大陸ではどれほどの古い学習者がいるだろうか。これは普遍的な問題ではないのだろうか。 師父はすでに法を私たちに教えてくださったが、迫害は依然として起きている。これは、多くの人がまだこの経文を重視していないということを意味している。師父は経文の中で、「現在の情況から言えば、大法弟子の修煉の中で現れてきた迫害の情勢は、宇宙で法が正される中、大法弟子が法を証明する中で、すでに激しく変化しました。修煉環境にしても、世の人々の認識にしても、みな根本的に変化しました」とおっしゃった。私個人的には、法を正すことがまた新たな段階に入ったと悟った。これは、邪悪がますます少なくなっており、全体的な環境が緩和された状況の下で、大法弟子が真相を伝えて衆生を救い済度すると同時に、更に個人自身の修煉を重んじなければならないということである。これは最後になればなるほど、最後にある人間の執着や後天の観念、そして人間になるための全ての要素がより強くなるので、もし重視しなければ、大法弟子の執着などは旧勢力が以前按配したものによって強められ、妨害され、そしていつしかだんだんと意気消沈の状況に陥ってしまう。「最後になればなるほど、精進すべき」、これは法を正すことが最後の時期になってきたとき、法の私たちに対する要求である。以前あまり精進しなかった人は、精進しなければならない。以前精進した人は更に精進しなければならないのである。未だに以前の状態を固守している人は危険である。旧勢力はこのように按配したのではなかろうか。私たちにできることは、以前よりも更に精進することである。精進すれば、この最後の障碍を突き破ることができる。 「精進」について、私は二つのことを悟った。一つは、法を勉強することに力を入れなければならないということ、もう一つは、日常生活でも法に則って物事を考えるということである。地元の交流会では、同修たちは最近法を勉強する時に眠たくなったり集中できなくなったりして、精進できなかったと話している。また、最近明慧ネットでは、法を暗記することについての感想文が多く掲載された。これは法を正す最後の段階で更に精進する表れであると私は思う。私自身の体験から言っても、同じである。以前法を読む時は結構感じがいいが、やはり時々知らず知らずのうちに頭の中で別のことを考え始めてしまう。逆に法を暗記する時は、一文字一文字を暗記するので、法は間違いなく心の中に入った。法の暗記について、多くの同修はすでに感想文を発表しているので、ここでは多く触れないことにする。 最近、法を勉強する時に眠くなるという問題を抱えている同修は、修煉の初めにこの問題を突破しなかったため、最後の段階で邪悪にさらに強められたと私は思った。以前この問題に対して、強い意志で我慢すれば突破でき、また一回突破すれば大きな問題にはならなかったはずである。しかし、今はそう簡単にはいかない。今は邪悪の要素が強められたために、正念で克服するだけではなくて、法を暗記することも非常に必要となってきた。それに私は、眠くなりやすい同修にはやはり考え方の奥に睡眠に対する人間的な観念があるからだと思う。たとえば「睡眠不足なら必ず眠くなる」と心配したり、あるいは「この時間になったらもうベッドに入って休まなければならない」と考えたりする。私たちははっきりとそのように考えていないが、このような数え切れない常人の要素が私たちの観念の中に存在するので、もし私たちが意識しなければ、邪悪に利用され、妨害されてしまう。これらのすべては大法弟子が法をよく勉強し、精進し着実に修煉することによって取り除かれるのである。 もう一つの問題は、皆で一緒に法を勉強して交流することである。大法弟子が一緒にいるとエネルギー場が形成されるので、このエネルギー場は正しくないものを取り除くことができる。多くの自分で解決できない問題は、この場に入れば、自然となくなるのである。さらに、大法弟子は常に、一緒に法を勉強して交流すれば、自然と、共に精進することができる。私は以前煉功するとき、いつも三日坊主だった。その後、人事異動で移った新しい職場に二人の年上の同修(女性)がいたので、彼女たちと交流して、彼女たちも同じ問題があると聞いた。そして、私たち三人は、これから毎日煉功をしようと約束した。それから毎朝、職場で会ったときにお互いに「朝煉功した?」と尋ねる。煉功しなかった人はこのように二回も尋ねられると、怠けることができなくなるのである。また、同修が一緒にいれば、同修の一念や言動は法の基準に合っているかどうかをお互いに法に照らし合わせ、気づかせることもできるので、このような環境は非常に大切である。今このような法を正す段階において、皆で法を勉強して交流することはさらに重要である。私自身や周りの同修の経験から見ると、邪悪はいろいろな手を使って、大法弟子が一緒に法を勉強することを妨げているようである。邪悪の数が減ったために、彼らは悪人を操って各方面から広範異におよぶ迫害を起こす力がもう足りない。したがって、彼らは大法弟子の最も表面に残っている執着と人間としての後天的な観念を利用し、トラブルや隔たりを作ろうとしている。だから、今修煉環境が緩やかになったにも関わらず、大法弟子は一緒に法を勉強し交流することができなくなった。ある女性の同修が、もう一人男性の同修が家族を養うために、最近知らず知らずのうちにお金に執着し始めて、法をあまり勉強しなくなり、顔色も悪くなってきたのを見て、毎日その男性の同修の家に行って、彼と一緒に法を勉強しようと考えた。しかし、二日後、彼女は行かなくなったのである。私は彼女に「どうして行かないの?」と尋ねたら、彼女は「以前、何人かの同修は私とその男性修煉者の間に恋愛関係があると噂をしていたから、そう言われたくないのでもう行かないと決めた」と話した。しかし、私は彼女に「自分の名声が重要なの、それとも同修の向上が重要なの?」と質問したら、彼女はまさに自分の人間的な観念が邪悪に利用されたとすぐに分かった。 また、一部の同修は表面上、毎日法を勉強して煉功して、正念も発しているし、真相を伝えることも怠けたことがないように見えるが、最近、邪悪に連行されたり邪魔されたりした。皆で交流した結果、私たちはこれらのことを一つのパターンとして、機械的に三つのことを行っている上、固有の観念を固く持ち続けて、実は心の中で精進する意識を失っているのではないかと思った。そのとき、私は『洪吟(二)』の中の一文を思い出した。つまり、「巨難の中で動揺せず、精進の意志を変えてはならず」。また「最後になればなるほど、精進すべき」を発表する前に、師父は「志が退かず」の経文の中で、「大法弟子は精進の意志を後退させてはならず、万古の苦労は今回だけのためだ」とおっしゃった。修煉が終わらなければ、特に法を証明するこの最後の肝要な時期に精進する意志を怠ると、一人の大法修煉者にとって非常な危険である。同修の皆さん、共に精進しよう。 以上は個人の考えを皆さんと交流するために書いたものであり、ご指摘ください。 |