日本明慧
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文/大陸大法弟子 【明慧ネット2005年12月10日】師父は『転法輪』の中でおっしゃった。「修煉とは、その苦難の中でこそ修煉しなければならないもので、常人の持っている七情六欲を放棄できるか否か、それらに対して淡々と見ることができるか否かが問題なのです。どうしてもそれらのものに執着するならば、修めることはできません。すべてのことには因縁の関係がありますが、人間はなぜ、人間でありうるのでしょうか? 人間の中には情があって、人間はこの情のために生きているからですが、肉親同士の情、男女の情、親の情、感情、友情など、何をするにも情が重んじられ、情を切りはなしては何事もできませんし、やる気があるかどうか、気分が良いかどうか、愛しているか憎んでいるか、とにかく人間社会の一切のこと、すべてのことが情から出ているのです。この情を断ちきらなければ修煉することなどできません。情から抜けだすことができれば誰もあなたを動揺させることはできませんし、常人の心があなたを動かすことは不可能となるのですが、それに取ってかわるものは慈悲で、より高尚なものです。」 私は1995年に法を得てから10年経った。自分の修煉過程を振り返ってみると、この修煉の道は順調ではなかった。やはり人間の根本的な執着を抱えて放さず、また人間の名、利、情を抱えて放さない。主人の誕生日に、息子と嫁が地方から車を運転して帰ってきて、親戚をすべて呼んだ。また、写真館へ写真を撮りに行った。翌日、嫁は車を運転して実家に帰り、夜9時に着いた。夜2時半頃、息子が外に食べに出たときには車はまだあったが、5時に嫁は胃の調子が悪かったので、起きて水を飲んだ時には車がすでになくなっていた。2人は外に探しに出たが、見つからなかったので警察に通報した。 私はこのことを知ってから、なぜなのか考えた。なぜこのような事に会うのか、6時の正念を発するときも落ち着かなかった。これは小さなことではない、30万元の車だ。息子と嫁は大法を信じて、いつも「法輪大法はすばらしい」と暗唱している。正念を発する時間になったら教えてくれるし、主人も大法がよいことを信じている。私はだんだん心を落ち着かせて内に向けて探した。自分は法を勉強することがあまり精進していない。毎日法を勉強しても、十分に理解しておらず、しっかりしていない。それに三つのこともあまりできていない。また肉親同士の情に巻き付かれていた。例えば息子は何百万元も使って一つのドラマを撮影し、お金を稼がない。私は表面では聞かないし関与していなかったが、心の中では、息子が家産を傾けることをとても心配していた。 師父は『転法輪』の中でこうおっしゃった。「家族のために厄払いを求めたり、病気を治すことを求めたりすることさえ、家族への情に対する執着なのです。他人の運命を左右しようとしても、人間にはそれぞれ定められた運命があるのです!」師父は「円満へ向かう」の中でこうおっしゃった。「皆さんはご存知だろうか? 現在、旧い邪悪な勢力の大法を迫害する最大の口実の一つが、皆さんの根本的な執着が隠されているために、難を重くして、これらの人を探し出さねばならぬ、というものなのだ。」 私はすぐに驚き目が覚めた。これは私の利益の心と情から来たのではないか。修煉は遊びごとではない、とても厳粛なものである。だから私は私と同じ状態の同修を目覚めさせるためこのことを書いた。 適当でないところは、同修の慈悲のご指摘を願います。
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