日本明慧


肝心なときに法と師父を思い出せるかどうかの重大な意味

 【明慧ネット2005年12月7日】普段、私たちは自分を大法弟子として律し、よく行い、内に向かって探し、師がおり法があるので何も恐れないという正念を生じることができます。しかし、肝心なとき、突然やってきた魔難に対し、すぐ自分が師父の弟子であることを思い出し、最初の一念は師父でありそして師父に加持してもらうことを思い出せるかどうかは、とても肝心なことです。

 突然やってきた試練は、人なのか神なのかを判断する時です。師父や法、衆生を思い出すことができれば、神であり、さもなければ人です。一念の差ですが、この関、この魔難は違う結果をもたらします。もっとも肝心なときに、私たちの法に同化した面が作用するのか?それとも人の面が作用するのか?肝心なときに師父や法を思い出せるかどうかにかかっています。

 長年の風雨を経験し、みんなは成熟になるはずです。この時、学習者の間にすでに、競い合う心、次元を区分する心、誰が誰よりよく修めているのかといった比較の心などはあってはならず、これらはすべて正念ではなく、利己的な心理なのです。私達は自分をよく修め、外に向かって求めるべきではなく、さもないと師父が私達一人一人に按配した道をはっきりと見極めることができなくなります。私達は師父が按配してくださった道をしっかりと歩むことを前提にし、学習者と「比学比修」(お互いに学び合い修め合い)する中で、自分の不足を見つけそして不足を改め、修煉の道を更に着実に歩ませます。これこそが私達の修煉に対する正しい認識であると私は思っています。 

 私達の修煉の道はそれぞれ異なり、さらには逆であるかもしれません。もし学習者の中に崇拝という現象が現れたら、崇拝する者と崇拝される者はどちらもとても危険な状況におり、両方の修煉の道は乱されてしまう可能性があります。私達は三つのことをしっかりと行う時、学習者の間でお互いに励ましあい、参考にすべきですが、互いに競い合うことはけっしてあってはなりません。このような次元に対する執着は法を正す時期の大法弟子にとっては、あってはならないのです。すべては法によって造成されたものだと私は認識しています。私は必ず師父が按配してくださった道を最後まで歩み円満成就します。私は師父の私に対する要求に決して背かず、師父に心配させません。これは法の要求であり、衆生の需要であり、私は衆生、宇宙のために、この偉大な事業を成就します。ただし、法が私をどこかに行くように按配したら、私はそこに行きます。私は法によって造成されたもので法の一部分であるからです。宇宙のすべては法で、どこにいてもまったく同じのではないでしょうか?生命の永久不変の中で、法が私を1つの宇宙を成就するよう要求するなら、私はどんなに難しくても師父の私に対する要求に従い歩みます。法が私を1粒の砂になるよう要求すれば、私は衆生が必要とする砂になります。何に成就しても、私は法の需要と衆生の需要のために存在します。

 以上は、難関が突然やってきたときに私が思いついたことです。複雑な環境に身を置き、よく修めていませんが、体得がとても多かったのです。その体得を踏まえて文章にしました。多くの衆生は私にかかっており、自分が良く修めていなければ、損失がとても深刻なものになると実感しています。他の学習者も同じだと思います。

 文章の内容を修正する時間があまりなかったので、良く書けていないかもしれません。良くないところがありましたら、ご指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/12/7/116013.html