日本明慧

「師父と法を信じる」ことについて

文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2005年12月20日】今日、大法弟子で、自分が師父と法を信じていないと思っている人はなく、ただ小さなところがあまりできていないと考えており、私自身もそうである。しかし修煉の向上につれて、ますます自分が完全に法と師父を信じていなかったことに気づくようになった。

 もちろん大きな問題について、すべての大法弟子は、みな神の存在を信じ、師父こそが宇宙の救い主、大法こそが最も根本的な真理、自分が何のために人間界に来たのかをはっきり分かっている。しかし些細なことについて、完全に大法の要求通りに行動できず、時々常人の観念で自分の行動を図っている。

 例を挙げると、師父は煉功こそが最も良い休憩であるといわれたにもかかわらず、よく休憩できないと疑い、遅くなるといつも煉功を怠けてしまう。大法弟子の正念には威力があるといわれたにもかかわらず、肉眼で効果が見られないため、発正念を慣例の行事とみて、重視することができない。修煉者の人生の道は再び按排されたと分かっていても、やはり何とかして自分の方法で改善しようと努力する。すべての大法弟子の背後には師父の法身がいると知っていながらも、師父が周りで自分の行動を見ていることをよく忘れる。最も際立つのは、自分はすでに師父によって最高の次元まで昇華したと信じることができず、いつも自分の次元はまだ足りない、威徳と能力がまだまだ足りないと思い込み、大法弟子として、法の要求通りに実行できないことである。実は自分に課せられた負担を減らし、安逸な生活を望んでいるからではないかと考えるようになった。

 修煉とは少しずつ向上するものであり、実際身の回りの小さな行動もできないのでは、本当に師父と法を信じたことにはならない。一部の同修は師父の説法を常人の理論と思い込み、師父の一段の説法には一つの意味しかなく、その意味さえ理解できれば良いと思い、師父の話を必ず遵守しなければならない真理と思っていない。良くできていないとき、大きな問題が生じなければ、自分はよくできていると思い込み、そのため自分に対する要求を緩めた。実は師父が弟子のために業を削り、師父自身が身をもって負担しているのであって、師父の慈悲と寛容が、弟子に向上させる機会を残したのである。

 もちろん、一人の修煉者として、完全に師父と法を信じられないということは、まだ常人の思想があるためである。もし完全に信じることができたら、その時点でもう円満成就できたのであろう。そのため、修煉の道には、私たちが師父と法を本当に信じているかどうかの試練は常に起こる。そのためいかなる状況下であっても、師父を信じ、大法を信じることこそが、最大の正念であると悟った。師父の言葉「先に信じてはじめて、見ることができる、これは宇宙の理なのです。信じなければ信じないほど、見させないのです」(『カナダ法会での説法』)を常に覚えておきましょう。


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/12/20/116950.html