法を暗記して悟ったこと
文/台湾の大法弟子
【明慧ネット2005年12月27日】5,6年修煉した古い学習者が、ある新しい学習者から『転法輪』を毎日1ページずつ覚えたなら、とっくに丸ごと覚えられたはずだと言うのを聞いて、心が打たれ、恥ずかしくなった。前に『転法輪』を覚え始めたことはあるが、覚えるのが遅く、しかも様々な妨害により、続けられなかった。今回同修のこの話を耳にして、決して偶然ではないと感じた。
『転法輪』を通読していて、頭に入らなくなり常に気が散る時、ある同修は何回も繰り返し読むうちにほとんど覚えるようになってしまう、ならば暗記すべきではないかと進言した。
私は法を暗記するのが遅く、状態がよくない時は、一句を10数回見ても、頭の中は空白のままで、一句さえ覚えられず、挫折感が募るばかりだった。更に時には数日かけてやっと1段を覚えるが、往々にして1段を覚えれば、上の1段をほとんど忘れてしまう、これが原因で結局挫折するのであった。同修たちは第2講、第4講まで進んでいたが、私はずっと第1講に止まっていた。今回改めて考えてみた、私はこれだけの原因で法の暗記を放棄していいのか?ずっとここに留まっていていいのか?あの思い悩む心と互いに張合う心を放下し、他人のことを見ないで、自分のペースで進めていけば、遅かれ早かれ覚えきる日がやってくるだろう。今日私が1段覚えれば1段を覚えたことになり、1講を覚えれば1講を覚えたことになる。私がそれだけ覚えれば、それだけ法に同化するのである。
法を暗記する時に、全身はエネルギーに覆われ、とてもすばらしい感じだった。繰り返し本の中の文を会得することにより、表面的な意味だけに止まらず、更に大きな内包を感じた。時には、ある句を覚えている時、突然頭に熱流が走るのを感じたりする。これらは以前通読する時には、なかった体験だった。法を暗記してから、私の修煉状態は全体的に大きく変わった。長い間、朝の第5式の煉功ができなかったが、法を暗記してから、ある日、突然起きられるようになった。早起きはもう私にとって手の届かない遥か遠いこと事ではなかった。法を暗記し始めてから、不思議に私は夜1時過ぎ、更には2時過ぎに寝ても、朝4時には起きた。このような状況はかつてなかったのである。ある時、同修の睡魔の問題についての交流を聞いて、突然私は『転法輪』の中の「煉功者のあなたがいつも病気のことを気にするのなら、実際のところ、それは求めること、病気を求めることにほかならないのですが、そうなれば病気が本当に身体の中に侵入してきます」というところを思いだした。もし私たちが「常人の観念」で問題を見て、毎日何時間寝なければならない、寝不足になると疲れるというふうに考えるなら、私たちは疲れを求めることではないか?それではこの疲れは押し込まれるのではないか?
以前、静功と発正念をする時は、いつも雑念がすごい勢いで盛んにやって来たのだが、法を暗記してからは、心も静まってきた。前は多く法の勉強会にも参加したのだが、読む時にいつも気が散ったり、更には眠くなったりしてとても悩んだ。法を暗記してから状況は明らかに好転した。これらはみな法を暗記して賜ったことである。私は、法を暗記するのは絶えず思想業を取り除き、自分を浄化する過程であると悟った。前は、ずっと先生をののしったり、大法をののしったりするのが思想業だと思ったが、実は心が静まらない、法の勉強の時眠い、気が散るなど、自分の学法と煉功を邪魔するのも、思想業ではないだろうか?
無論、法を暗記するには長い時間をかけ、進度も遅いが、しかしこのことで法の暗記を放棄してはならない。法の暗記は私に生活の中の様々な試練に向かわせ、もっと自分の隠れた執着をはっきり認識できるようにしてくれた。ある一念が浮かび現れた時、直ちにこれは「私的な考え」だと気づき、このような考えはあってはならないと排除するのである。いろんな苦しみと様々な試練に出会った時、時折、法の中の句が浮かび現れ私を啓示してくれるのである。何遍『転法輪』を読んだか覚えていないが、法の暗記は私に以前の学法は表面だけの勉強に過ぎなかったことと、法の暗記こそ心に銘記できる真の法の勉強だということを教えてくれた。私はまだ第1講までしか覚えてないが、すでに全体の修煉状態が明らかに変わっているのを感じ、こんなに遅れてやっと決心を固めて法を覚え始めたことを悔やんだ。
師父はこの宇宙大法を私たちに伝えて下さった、もし私たちが法を覚えることができるならば、様々な観念に阻まれ通読に限る必要があるだろうか?
次元に限りがあるので、足りないところは同修たちの慈悲の指摘を願う。
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2005/12/27/117383.html)
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