個人修煉を突破し、法を正す時期の修煉で前へ突き進むべし
文/ドイツ大法弟子
【明慧ネット2006年1月4日】皆さん、こんにちは。私はバイエルンに住む学習者です。3年前に中国へ帰国後、不法監禁された学習者を救出するための記者会見に参加した際、多くの法輪功学習者と知り合いになりました。私は皆さんと一緒にいるときに、非常に穏やかでほのぼのとした雰囲気に包まれており、まさしく師父がおっしゃった人間の浄土そのものでした。当時の私は、修煉についてまったく分からず、ただ学習者が円満成就の話をしたときの神聖な雰囲気が、俗世に流され埋もれていた私の心を呼び起こした。そのあと、私は自宅に戻って『転法輪』を一気に読み終え、大法の門に入りました。
修煉し始めたころ、私の境遇は、まさに師父が「中には煉功することが原因で離婚しそうになる夫婦もいます」(『転法輪』)とおっしゃったように、自分の修煉の道は非常に難しく感じました。幸いにも、学習者達は私に対して辛抱強く、法に基づいて導いてくれた上、私が行っていた法輪功の真相を伝える活動に反対した夫に対しても、よく諭し理解してもらったため、私は困難を乗り越えることができました。
師父もはっきり、「あなたが煉功していても、あなたの配偶者は煉功していない、という場合、煉功が原因で離婚してしまってはいけません」(『転法輪』)と説いておられました。しかし、当時の私は法の勉強がまだしっかりしておらず、修煉および常人の生活は決して両立できないと思っており、必ず幾重の困難に遭うと思い込んでいました。ですが、私の周りにいる新しい学習者は、修煉し始めてから着実に向上され、家庭もしっかり按配されているのを実際に目にした時に、自分が修煉に対する認識が断片的であることが分かりました。本当は、信念強く真に大法を修煉する時に、難儀は決して現れてこないし、家族との関係もよくなるはずです。
上述の新しい学習者は最初から法を繰り返して学び、どんな問題に直面しても、ひたすら法の勉強をしていたため、法に対する認識もより深まりました。私の場合は、最初から消極的な態度だったので、難儀に遭った際、自分に向かって原因を探し、法を学ぶのではなく、学習者達に助けを求めました。そのため、私はこの難儀から抜けきるまでに半年間もかかりました。結局はもっと法を学び、自分自身を真の修煉者として見なす姿勢がなければならないことは、今振り返って見ればすべてが明らかとなりました。
その後、夫は自分の修煉に対しても大法に対しても応援してくれ、大法の仕事も手伝ってくれるようになりました。特にここ半年間、私は仕事をしていないため収入がなく、多くの大法の活動に参加する際に必要な経費なども夫が援助してくれました。
夫の善い行動も報われました。夫は幾つかの学校から、次から次へとコンピューターの指導通知を受けました。それぞれの授業内容は難しくないし報酬も高く、夫にしてみれば、自分の好みにピッタリであると嬉しい限りでした。また、偶然にも、以前我々が開いた九日間の法輪功教室を学ぶ機会を逃していた女性が夫の生徒になったため、再び大法と出会い、修煉の道を歩み出しました。
その後、我々は衆生を救い済度するために、舞踊グループを作ることにしました。しかし、私はしっかり法を学ばなかったため、自分が事を成す強い執着心が現れました。実は、私は幼少の頃から踊りが好きで、幼稚園の時から皆をリードして踊っていました。我々は踊りの練習後に、一緒に法の勉強をしました。その時、私は他の学習者から、流暢に『転法輪』を読めていないと言われ、修煉は厳粛であることを厳しく指摘されました。私は非常に恥ずかしく思い、それ以来、毎日一講ずつ読むようにしました。大法の仕事をこなす際、すべての人心を取り除くべきであり、決して自分には常人の心は強くないから油断してはならないと思いました。
この間、私は胡錦濤訪問時の法輪功の活動に参加し、法を正す時期における修煉に対する認識をさらに深めることができました。我々は胡氏に向かって「ファー・ルゥン・ダー・ファー・ハオ(法輪大法はすばらしい)」、「胡錦濤よ、神および民衆が与える時間は限られている」と大声で叫んだ時に、私はまさしく師父が説かれた「鋼鉄をも熔解してしまう慈悲」を体験し、それはさまに宇宙間で天と地を震撼させるもっとも強い力でした。
私はそれから、自分が個人修煉で長期にわたり、直面した種々の困惑が解けました。これまで、私は大法の仕事をなす際に多くの執着心に惑わされて、消極的な態度になってしまうことが多々ありました。しかし、我々の修煉が法を正す過程の中で行われていることを今回の活動で認識しました。自分が大法の一つの粒子として、法を正す大きな流れに溶け込んでいれば、これまでに自分が大きく感じた難儀や執着がとても小さくなり、逆に、自分が消極な態度であれば、法を正す流れと離れてしまい、難儀や執着も大きく感じてしまいます。
私は再び『転法輪』を読み返した時に、自分が理解した意味に大きく変化がありました。例えば、「病気を取り除く」および「高い次元の修煉へ導く」の関係については、個人修煉および法を正す時期における修煉の関係と類似していることを理解しています。この関係が明らかになれば、法が現す境地もさらに広大になり奥深くなります。そして、私は大法および師父に対して、さらなる畏敬の念を払いました。私は今でもよく執着心が現れます。しかし、私は以前のように気持ちがいらだって落ち着かないことはなくなり、必ずこれらの執着心を取り除き、心性を向上させるようにしています。
先日、明慧ネットで大陸の学習者達の交流体験談を読み、また、修煉がしっかりしている古い学習者達と交流してから、自分にはまだ修煉しきれていない部分があると感じました。私は師父が、学習者が大法の中で修煉することを、溶鋼に落ちた木くずに例えていることを思い出しました。私は自分が大法の中で修煉できるとは、これ以上にない光栄であり、二度とないめぐり会わせを大切にします。そして、百パーセント純粋になるように、自分を絶えず浄化してゆきます。私は、常に精進して修煉をし、円満成就するには、自分が無条件で大法に同化するほかに方法はないと思います。
以上は私の個人的な感想です。不適切な箇所がありましたら、ご指摘ください。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/4/118017.html)
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