日本明慧


時間に対する執着は一部の大法弟子の怠慢が主な原因

 
 文/長春大法弟子

 【明慧ネット2005年12月20日】数日前、ある大法弟子と交流しました。この大法弟子は迫害により、いろんな苦難を嘗め尽くし、大法を確固として信じているが、最近非常に怠慢し、精進できないと話しました。交流を通じて、この大法弟子が怠慢したのは、時間に対する強い執着によるものだと気付きました。いつ終わるかといつも考えており、しかし予想した時間になってまだ終わっていないと気落ちし、法に対する固い信念が弱ってしまい、最後に怠慢してしまいました。

 交流の時、「師父は2001年の頃にすでにそろそろ終わるとおっしゃったのに、どうして今になってもまだ終わっていないのか」と、この大法弟子が疑問を話しました。実は師父は2000年9月26日の明慧ネットに掲載された『厳粛な教誨』の中に、「また先生がどうして早くこのことを終わらせないのでしょうかと言う人もいます。私は常人の言葉を借りて、このような人を言うとすれば、どうして恥ずかし気もなくこんなことが言えるのでしょうか。難の中に迫害を受けた弟子は辛さを耐えて彼らを待っているのです。彼らが常人から脱皮するように待っているのです」と、言われました。

 私個人の体得ですが、師父は何度も終わる時間を延長してくださったのは、実は慈悲な師父は大法弟子と世の人々に機会を与えるためでした。回り道を歩み、よく行っていない大法弟子に、もっと多くの縁のある衆生を救い済度し、最後に大法弟子が先史の洪大な誓いを果たすことができるように、よく行う機会を与えられたのです。

 私個人で言うと、1999年7月20日以来、3年間も回り道を歩み、更に常人と混同しました。慈悲で偉大なる師父は、私が正道に帰り、改めて師を助け、法を正す明るい道に戻るように、機会を与えてくださいました。もし本当にこの大法弟子が言ったように、2001年に法を正すことが終わってしまったら、私のような回り道を歩んだ大法弟子は、師を助け、法を正し、洪大な誓いを果たす好機を永遠に失ってしまったのではないでしょうか?!師父は「今という時間は大事に使わなければならず、この時間は弟子たちに残したものです」(『導航・ワシントンDC国際交流会での説法』)と言われました。

 師父は大法弟子を慈悲し、大法弟子に機会を与えると同時に、宇宙の衆生を慈悲し、迷いの中にいる世間の人々を慈悲し、大法の真相を知り、大法の真相が分かり、最後に人生の十字路で正しい選択ができ、本当に将来に入るように、彼らにも機会を与え、時間を与えられました。師父は衆生を救い済度しに来られたのであり、衆生を淘汰しに来られたのではありません。師父が何度も法を正す時間を延長されたのは、衆生にすばらしい将来に入り、永久不変に回帰する機会を与えられたのです!極悪非道な邪党にでも師父は機会を与えたことがあるのではないでしょうか?!しかし邪党は頑迷に非を認めないため、結局徹底的に全滅されることになります。

 一方、法を正すことがなかなか終わらないのは、私たち一部の大法弟子が、法を正す時間に執着し、自分の正しくない後天の観念に妨害されたため、旧勢力の邪霊、卑しい鬼に隙に乗じられ、大法をかたく信じる意志が妨害されることによって、怠慢になり、意気消沈の状態に陥りました。これはまさに法を正す進展を引き延ばしたのです。

 個人の考えですが、時間に対する執着は、一部の大法弟子さらに一部の古い大法弟子が、怠慢になり、意気消沈の状態に陥ってしまう根本的な原因だと思います。ここで大陸の大法弟子は、いつも一緒に法を勉強し、交流する環境を形成するように、心から期待しています。こうして、「学んで比し修して比す」(『洪吟・実修』)ことができ、正しくない状態に陥る大法弟子がいれば、皆で法にもとづいて判断し直ちに指摘してあげます。皆がすべて法に則って交流するため、このような環境の下、怠慢になる考え、観念も作用を働かなくなります。

 最後に、師父の経文『最後になればなるほど、精進すべき』の中の講法をもって、大法弟子のみなさんと励まし合いましょう。「実は皆さん考えてみてください。今までの修煉者は一生を費やしてはじめて歩み終えるこの道のりでも、一刻も怠りませんでした。大法に済度される生命に与えられる果位を成就させようとする大法弟子は、修煉の中で最も利便な修煉法門があるのに、法を証明しながら修煉するというこの最も偉大な栄光が瞬く間に去っていく短い修煉の間に、なぜもっと精進せずにいられるのでしょうか? この世で常人の中で修煉するのが大法弟子の修煉方式であり、しかも修煉の中で人の心を直に指摘するのだと皆さんはすでに分かっています。人間の執着と、法を証明し衆生を救い済度することを妨害する観念はみな、取り除かなければならないものです。神の道を歩んでいる修煉者にとって、これら常人の心の執着を取り除き、これらの観念を変えることはそれほど難しいことなのでしょうか? もし修煉者がこれをも取り除きたくなければ、修煉者としての現れはどういうものなのでしょうか? もちろん、こういう情況にいる多くの弟子は実は最初、自分にある軽い執着または観念の妨害に気づくことができず、邪悪に隙に付け入られ、妨害の要素を強められたから、このようになったのです。認識したらすぐ追いついてくると思います。しかし、皆さんはこの最も偉大な神の道に、回り道を少なくし、自らの将来に悔いを残さず、次元の距離を開くことなく、これこそ私と皆さん、そして皆さんに期待を託している衆生の願いなのです」。

 以上は個人の体得であり、適当でないところは大法弟子のご指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2005/12/20/116948.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/1/6/68733.html