日本明慧


学習者間のいざこざを正しく対処すべき

 文/台湾大法弟子

 【明慧ネット2006年1月11日】摩擦のない人間関係は非常に稀であり、人と人との間のいざこざは、決してそれらの人間関係が悪いことを示すのではありません。例えば、物事に対する見方と感じ方の不一致や、法に対する認識の差など、すべていざこざが生じる原因となります。

 実は私はある学習者との間で同様な経験がありました。私たちは、相互の認識・共感が足りないうえ、交流をすることがありませんでした。時間が経つに連れて、事を複雑化させないために互いに避けるようになりました。しかし、法において考えてみれば、心性を向上する必要性があるからこそ、いざこざが生じるわけで、逃避することは根本的な解決法ではありません。ある学習者は、いざこざから逃れるために何度も読書会および煉功拠点を変えました。しかし、問題は解決しませんでした。

 私は自分自身の体験をここで述べたいと思います。

 いざこざにかかわった3人は同じ読書グループにおり、その中の1人が私です。私たちは一度、常人の言葉に影響され、対立の収拾がつかなくなり、読書会が一時中断したことがありました。その後、皆さんと交流を重ねたのち、読書会を再開しました。

 しかし、その中の1人の新しい学習者は釈然としていない様子でした。私は、自分にも責任があると感じ、彼を励ます必要があると思いました。しかし、自分の中では、彼に対して実証されていないことを軽く信じてしまうからいけないと、不満を持っていました。また、もう1人の学習者に対しても不満を感じており、彼は、周りの人の言葉を何でも信じてしまい、自分をしっかり持っていないと思っていました。もちろん、私自身も反省しましたが、彼らが事を撹乱しなければ、私自身がちゃんと解決法を見つけるのにと思っていました。

 私は、このように思い続け、結局は、大法の仕事や常人のことの忙しさから、上述の件を暫く放って置きましたが、今私は問題が自分にあることをやっと悟りました。相手がどんな気持ちで、どんな状態であっても、自分の先入観を取り除かずに、相手と接すれば、助けることは到底できないことが分かりました。私は先ず誠心誠意相手を受け入れなければならず、ましてや相手が新しい学習者であれば、彼は行きたい読書グループを選ぶ権利があります。要するに、私の彼に対する先入観を放下しなかったことが問題でした。

 師父は「シンガポール法会での説法」で「もし一人の人がいかなる自分の観念も持たずに他人と話し、相手の欠点を指摘したり、相手に何かを教えたりすることができれば、相手はきっと涙が出るほど感動します。」と説いておられました。

 私に学習者を助けたい気持ちがあっても、相手に対して自分の先入観を持ったまま接するならば、それは真に相手のことを思いやる行為ではありません。そのようなことをしても、決して、人を感動させ包容することはできません。自分自身が正しくしなければ、相手の良くない部分も取り除くことはできません。

 師父が私たちに素晴らしい大法を与えてくださったことに感謝します!学習者たちと共に精進し成長できたことに感謝します!いざこざは恐しい事ではなく、肝心なのは私たちがそのいざこざに正しく対処できるかどうかであり、もしそれを有効に使うなら、それは自分たちの心性を向上させる絶好の機会となります。

 以上は、私の個人的な修煉体験の感想です。不適切なところがありましたら、どうぞ、ご指摘ください。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/1/11/118411.html