日本明慧


勉強、仕事および法を実証する時間の配分について

  文/日本大法弟子

【明慧ネット2006年1月18日】僕は日本に住む大法弟子です。今は大学3年生で、法律を専攻しています。そろそろ就職活動、卒業の時期になります。法学部なので、周りのいろいろな同修から弁護士になるようにと励まされました。しかし僕は弁護士の資格のためにあまり多くの時間を使いたくないと答えると、時間に対する執着だ、内に向かって探すべきだと周りの同修に言われました。そこで自分は勉強、仕事そして法を実証する時間の配分に問題はないのか、内に向かってしっかりと探してみました。ここでこのことについてみなさんと交流したいと思います。

 僕は1997年から修煉を始め、日本に来てから地元の高等学校に入学し、そのまま日本のある難関大学に合格することができ、日本語自体も問題ありませんでした。修煉していない家族はもちろん僕に弁護士になってほしいと思っていて、父もよく僕と将来の理想像について話していました。僕自身も以前弁護士になることを考えたことがありました。そして今日まで、大学での三年間で、常に勉強以外の時間を大法の翻訳に使ってきて、絶えず翻訳することで、翻訳レベルもかなり進歩し、スピードもだんだん速くなって、翻訳の量も増えてきました。しかしその後、周りの同修たちは僕が法律を学んでいるのを知ると、弁護士になって、将来日本で法律を通して大法を実証するようにとみんな薦めてきました。しかし弁護士になるためには大変多くの時間を必要することを考えると、僕は弁護士になる考えを捨てて、日本企業に入ることに決めました。そのため周りの同修からいろいろな意見が寄せられてきました。

 弁護士になるための司法試験を断念したのは、確かに法を実証する時間が非常に少なくなっているからです。しかし、それは時間に執着したためこのように考えたのではないと自分は思っています。実をいうと、今大学で勉強する学生、あるいは研究者、ひいては一般企業の従業員もみな同じ問題に直面しています。すなわち、勉強と仕事をよくすると同時に、できるだけ法を実証しなければならないということです。そのため時間の配分が比較的に難しいと感じている人もいます。たとえば僕の場合で言うと、日本で弁護士の試験に合格するには、大量の時間を使って勉強をしなければならず、そのため勉強の期間中に、自分の長所である翻訳能力を活用することができなくなります。さらに問題なのは、弁護士に合格するには少なくとも3年間はかかるし、それに3年以内に絶対受かるという保障もありません(僕の周りの同修の妹も大法弟子ですが、司法試験に合格するため家で3年間勉強していましたが、まだ合格していません)。もし法を実証する時間、すなわち法が人間界を正す時間がまだ10年、20年もあるなら、僕は弁護士の道を選ぶかもしれません。しかし法を学ぶことで分かっているように、大法弟子に残された時間は非常に少なくなっています。では人間社会で修煉する大法弟子として、この関係について、いかに認識すべきなのかも修煉の一部となりました。

 このことについて、僕は次のように認識しています。私たち大法弟子は各宇宙からきた代表として、三界に入る前にすでに師父が法を正すことに力を尽くして協力し、衆生を救い済度するという広大な願いを立てたのです。つまり大法弟子の本当の身分とはまず法を正す時期の大法弟子であり、その次に人類社会の一員であることになります。師父は説法の中で時間に執着してはならないと強調されましたが、それは法を正すのが早く終わることに執着して心を落ち着かせて修煉できない場合、あるいは法を正すために自分のやるべき学業や仕事を怠って面倒なことをもたらす極端な場合だと僕は理解しています。しかしそれは大学で法律を専攻しているから当然のように弁護士になることは意味しません。ではどうすれば時間をよりよく配分できるのかというと、やはり最終的には出発点の問題となります。

 すべての大法弟子が人間界に入ってから、周りのすべては常人社会の状態であるため、しっかり法を学ばなければ常人の世界に心を奪われ、目に映る虚像に騙されてしまいます。私たちは法を実証し、衆生を救い済度するためにやってきたのであって、一人の人間として人間世界での観念と好みを満足させるために来たのではありません。法を正すことには終わりの日があり、つまり衆生に対する救い済度は一定の時間内に限られています。そのため、一人の修煉者として、どうすればこの限られた時間の中でより多くの衆生を救い済度できるのかを最も考えなければならないのです。周りの環境にどのような変化があっても、この最も根本的な問題を忘れてはなりません。僕個人の場合で言いますと、3年間の時間を弁護士の資格のために費やして、それから弁護士として活躍するよりも、今ある自分の翻訳能力をうまく利用して、より多くの衆生を救い済度したほうが良いと考えています。なぜなら弁護士でも、翻訳者でも、ひいては知識のない農民でも、法を実証する心、衆生が救い済度されることを切に思う心さえあれば、どんな場所でも、どんな方法でも衆生を救い済度することができ、そして良い作用をもたらすことができるのです。もちろん常人の技術があるのは一番良いのですが、ない現状の中で、どのように今の自分にできることをうまく活用するようになれるかも、非常に重要なことになります。

 もちろん、私たちは、現状維持、新たしい技術を勉強しない、という逆方向の極端な行為に走ってはいけません。なぜなら私たちが人間世界、特に科学技術がすべての生存空間を占めている中で、救い済度する対象は常人であるため、充分な常人の技術がないと衆生を救い済度する進展を阻害することになります。そのため知識が必要となります。自分がすでに学んだもの、または仕事の中で使っている知識と技術が法を実証することにも活用できるのが一番良いのですが、人間世界にいる私たちは思っているように自由に仕事を選べないため、現にある状態下で、より多くの衆生を救い済度したいという出発点から、どうすれば自分が今持つ能力を充分に発揮できるのか、あるいは法を実証する仕事——たとえば翻訳の中で、どうすれば翻訳のレベルとスピードを向上させることができるのかを重視すべきです。翻訳の仕事にはそれほど高い要求と基準はないため、私たちは一定のレベルに停滞して、自分の現状に満足して進歩しなくなりやすいのです。衆生を救い済度することの要求についていけるために、より良い真相を伝える窓口を提供するためには、やはり常に新しい知識を取り入れ、自分の翻訳レベルを向上させる必要があります。このような新しい知識の取り入れには司法試験のような非常に長い時間でないと効果がないという制限がないため、勉強した分だけ向上するので、やはり常に勉強すべきです。

 以上は個人の認識ですが、レベルが非常に限られていますので、より良い提案の参考になれたらと思っています。そして同じ問題を抱えている同修がこの文章を読んだことでさらに理解を深める機会としたいです。間違いがあればぜひご指摘をよろしくお願いします。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/1/18/118623.html