日本明慧


衆生を済度する際に、どんな執着心もあってはいけない

文/河南南陽の大法弟子 正宇

 【明慧ネット2006年1月16日】まず、あるお話をしたいと思います。昔、ある人は心性がとても高かったので、ある神様が彼を済度しようとしました。しかし、その前に彼に試練を与え、どのように対処するかを見ました。神様は学者に変身して彼のところに行き、自分を背負って川を渡るように頼みました。その時、彼は川辺で土を掘っていました。季節はちょうど初冬で寒く、川の水はまだ凍ってはいませんでしたがとても冷たかったのですが、彼は文句一つ言わずに、ためらいもなく靴を脱ぎ、ズボンの裾を捲り、学者を背負って川を渡りました。戻ると足を拭いて靴を履き、再び土を掘り始めました。

 この時、学者はまた川の向こう岸で彼を呼びました。家に忘れものをしてしまい、取りに行きたいので向こうまで背負って行ってほしいと言いました。彼は再び学者を背負って戻りました。少し経って学者は、また彼に自分を背負って川を渡らせました。そして、言い忘れた事があるからと言い、また背負って戻らせましたので、彼は再び学者を背負って戻りました。しばらくして、再び彼に背負わせ川を渡りました。こうして何度も同じようなことを繰り返しましたが、彼は終始文句一つもなく、面倒がらずに毎回戻ると、また土を掘り、見送りもしませんでした。まるで何ごともなかったかのようでした。

 しかし、学者からは全く感謝の言葉がありませんでした。この事から、確かに彼の心性が非常に高く、よい事をしても何の歓喜心もなく、川の水が冷たくても恐れる心もなく、何度繰り返しても面倒がる心がなく、学者が彼に感謝の言葉をしなくても報いを求める心がないことを見ることができました。やる心があっても、恨みも後悔もなく、穏やかに対処し、水のように心は落ち着き、執着心も全然ありません。これは過去の道を修める人なのです。

 この物語を通して、私たちの今日の真相を伝えて衆生を救い済度する事を見るとき、もし私たちがいろんな執着心を放下することができれば、真相を伝える事をしっかりと行うことができます。真相を伝えることは私たちの使命で、同時に私たちの修煉の一部なので、どのようにするかは非常に重要です。物語の中の彼のように何があっても心が動じず、これを成すことができれば、衆生を救い済度することも、きっとしっかり出来ると私は思います。

 真相を伝えることは私たち一人一人の大法弟子の神聖なる使命で、私たちが果たさなければならない責任なのです。法を学んで、多く法を学んでこそ、ようやく各種の執着心を放下することができます。執着心を取り除くことは、私たちが真相を伝え衆生を救い済度することの保障になります。恐怖心があると、真相を伝える時に様々な恐怖心が生じます。心配事がとても多く、何かが起こるのを恐れ、失うことを恐れます。これは名利と情を放下できなかった為にこうなったのです。

 話をする時にびくびくし、心理状態が不安定で、話の前後のつじつまが合わず、言葉が通じず、これを言ったらあれを忘れる、という状態だと効果が良くなるはずがありません。歓喜心があり、話をしてすぐに理解してくれる人に出会うと、嬉しくて喜び、有頂天になってしまいます。消沈の心もあります。話しにくい人、あるいは聞きたがらない人、障害の現れ、困難なことに出会うと消沈して、全身の力が抜け、元気が出ません。そして、顕示心もあります。私たちはこの数年間修煉して、心性から身体に至るまで全てにおいて巨大な変化がありました。しかし、私たちの修煉の中で現れた状態は常人の中で現れることはなく、あまり高く話すことが出来ません。そうでなければ、マイナスの影響をもたらし、常人は私たちの頭がおかしいと感じるかもしれません。

 ある日、街を歩いているとき、ある店の入り口に大きなスピーカーがあり、大法を誣告して罪に陥れる文章を放送していました。私は入り口で発正念をしてから店に入って、そのテープを手に入れ廃棄しようとしましたが、店に入ってみるとそれはラジオ放送でした。私は店のオーナーに真相を伝えました。彼は自らラジオを止めました。

 私はまず江氏集団がなぜ法輪功を迫害するのか、法輪功とは何なのかを話し、4.25から7.20、天安門焼身自殺事件と国外での大法の広がり、そして江が国外で起訴されたことなどを話しました。このように彼が分かりやすく説明すると、最後に彼はこう言いました。「あなたが言っていることは彼らが言っていることと違う。あなたが言っている通りだと法輪功は本当に良い。でもなぜ佛、神を言うのか?」このことから、この人が神や佛を信じていないことが分かります。そして、彼は引き出しの中から一つの『推背図』と予言の小冊子を2冊取り出しました。その中の一冊はすでに半分以上、引き裂かれていました。

 この人は長年の凶悪な党の教育を受けたため、根本的に神、佛を信じません。それに私たちがまた彼にはっきり説明が出来なかったため、結局マイナスの影響をもたらしました。数日後、私は再び彼のところに行き、もう一度説明しました。彼にはっきり説明すると、彼は煉ってみたいと言いました。「一口食べて太るわけがない。何事をしても焦ってはいけません」という諺があります。

 数日前同じ職場の同僚(彼は寒中水泳の愛好者)が朝、川に行って泳ぐ時、河岸に30数冊の小冊子が置いてあったのだが、それを拾う人も見向きする人もいなかったと私に話しました。それを聞いた私の心は非常に痛惜しました。私たちの資料はすべて同修が生活を切り詰めて作っているので、容易なことではありません。私たちはいい加減な心で、ただ資料を配布するためだけに資料を配布するのではありません。資料も無駄になり、果たす役割も果たせません。これは、その同修の恐怖心を暴露しており、勇気がなければあんなに沢山の資料を持たなければよいのです。これは虚偽な心、いい加減な心、そして恐れる心が同時に現れたのではありませんか?

 私たちが真相を伝え衆生を救い済度するのは、水に落ちた人を救うのと同じように、腰を曲げて手を伸ばして、力を尽くして水の中から岸まで引き上げなければなりません。最後にもう一度師父の講法を同修と共に読みましょう。「未来の神様も永遠にこの偉大な時期を覚えているに違いありません。理性をもって大法を証明し、智慧をもって真相を伝え、慈悲をもって法を広げ、人々を救い済度し、これは即ち覚者の威徳を築き上げています」。(『理性』)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/16/118663.html