日本明慧

自分の根本の執着を探す

 文/遼寧省の大法弟子

 【明慧ネット2006年1月16日】一カ月半以前、わが市で一人の同修が不法に逮捕され、彼女が担当していた、同修に経文と真相資料を渡すことができなくなった。私は同修として、迫害を暴露すべきだと思ったが、ずっと書かなかった(これは私の安逸心である)。二日前から私は書き始めた。母(修煉者)とこのことで交流し、「ある同修はすでに書き、ある同修はすでに資料場を作っているよ」と母から聞いた。

 このことで私は真剣に自分の執着を探すべきだと思った。私はなぜ早く邪悪を暴露しなかったのか? なぜ同修のことを自分のこととしていなかったのか? 今やっと意識して、なぜ数日前は考えるだけで書かなかったのか? すべては最近の私自身の学法の状態と心性に関係があると思った。

 普段、ことをするときに時間を大事にせず、学法が少なくなってしまった。このようにして、怠惰な心、だらける心は隙に乗じて、ずっと私を妨げ、私はその中に陥っても気づかなかった。怠惰な心を表したのは、もうちょっと横になっていたい、大法の本を読むとき眠くなったら、寝るなどである。他の大法弟子は夜中に学法することができるのに、私は起きられず、本当に差を感じた。普段は真面目に発正念せず、手の動作も正確でなく、夜中12時にはあまり起きなかった。明日まだ時間はあるし、明日また本を読もうなどと思ってしまう怠惰な心があるため、常に「私は正法時期の大法弟子である」という要求で自分を厳しく要求していなかった。だから、大法の本を読むとき、集中せず、重視しなかった。クラスメートに真相を伝えるときも、『九評』を話すことが多く、「安全である」と思い、実は怖がる心が生じている。時に彼らが聞きたくなければ、私は話さない。これは旧勢力が迫害しているのに認識していなかったのである。彼らが聞かないと、私は言わなくなり、私とその人との縁がそのまま通り過ぎてしまった。再び彼らに真相を伝える「勇気」はなく、これらの人にまた良くない観念があり、これらの人はもうだめだと思った。実は、大法弟子として人を救うしかない、誰もどの人は救える、どの人は救えないかを結論づける権利はない。私達は師父の要求通りに智慧をもって人々に真相を伝え、最大限に救い、私達は衆生に責任を負うべきである。

 私自身の修煉がうまくできなかったため、精進せず、自分の執着を認識できず、その上、自分はなかなかよいと思っていた。大法弟子の慈悲と大法を固く信じる心がまだ足りず、真相を伝えるときも衆生の立場で、衆生のために考えていなかった。肝心なときに人心で自分を保護し、心から衆生のためにと考えていなかった。これらの修煉の関と取り除くべき執着を突破できず、ずっと逃げていた。これらのことを意識して、私はこのままではよくないと思い、すべてのよくない観念、執着、人心など取り除こうと決心した。私には使命があり、基準に達した大法弟子になりたい。これらの心を取り除き、二度と修煉の機会を放棄しない。

 これは私の修煉の過程における認識で、不適なところがありましたら、ご指摘願います。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/16/118666.html