日本明慧

師父が錦州で法を伝えられた日の思い出

 文/錦州大法弟子

 【明慧ネット2006年1月16日】1994年4月5日は遼寧省錦州市の大法弟子にとって一生忘れ難く最も幸せな日でありました。この日、偉大な師父が錦州市に来られて法を伝えられました。この日を記念するため、毎年4月5日を錦州市の「法輪大法デー」に決めました。すでに12年という歳月が流れましたが、しかし師父が法を伝えられた時私達に残された輝かしい姿と神跡は今なお記憶に生々しく、感無量であります。 

 1994年1月、師父が天津で法を伝えられている時、その講習会に参加した学習者が、錦州市気功研究会の紹介状を持って、師父に錦州市で講習会を開いて法を伝えてくださるようお願いしました。その当時師父の講習会の年間日程はすでにいっぱいでしたが、師父はそれでも時間をさいて一期の講習会を開くことを承諾してくださいました。4月4日、師父は大連での第1回目の講習会を終え、そのまま車に乗って錦州へ急いでくださいました。営口市を通る時、小雨が降り出しました。すでにお昼近くなり、みんなはレストランに入って食事をすることにしました。 

 空はすぐにでも大雨が降りだしそうで、全天黒雲が低く垂れ込んでいました。師父はしばらく外の空を見つめられてから、空に向かって幾つかの手印をされました。運転手は不思議に思っているようで「これは何の手まねだろう」と言わんばかりでした。師父はこうおっしゃいました。「ある海の竜王が当番をしているので、この雨はまだ降らなければなりません」運転手さんは心の中で呟いた「天が雨を降らそうとしているのに、人に干渉できるものか。私はたくさんの気功師を見てきたが、みんな法螺を吹くだけにすぎなかった」食事を済ませてレストランを出たが、空には依然雷がごろごろ鳴っていました。師父は「雨に降られながら運転するのは不便であるが、しかしこの雨は降るに決まっているので、雨を車の後で降らせましょう。私達は自分の道を急ぎましょう」とおっしゃいました。 

 運転手は信じられない表情で車をスタートさせました。車が走り出してから、車の後で雷がなり稲光が走り、大雨が降りはじめました。しかし車の前方は見渡す限り晴れ晴れしい空でした。こうなると運転手さんも感心せざるを得ませんでした。 

 車が錦州に着いてからは、まず研究会と連絡を取らなければなりませんでしたが、しかし誰もがどのように行けばいいのか知りませんでした。ふと見ると師父が掌に方向を描いて運転手さんに見せられているのでした。間もなく気功研究会に着いて、師父の泊まるところを教えてもらいました。車が宿泊所に着いたら、すでに北京大法学会の古い学習者達が道に出て待っていました。 

 師父についてきた大連の古い学習者は驚いた表情を隠しきれず「あなた達はどうして師父の着かれたのを知りましたか?」その中のある古い学習者が「私達は部屋の中にいたところ、突然師父の声が聞こえました。あなた達、下りてきてくださいと」それで私達は下りて来ました。大連の古い学習者は「なるほど、それであなた達は師父が着かれたことがわかったのですね」 

 法を伝える会場は最初「八一劇場」に予定しましたが、しかし気功研究会とこの劇場の責任者がほかの事で誤解が生じ、とても気まずくなっていたため、恐らく貸してくれないと思い、たったの4・500人しか入られない電力局クラブに按排するしかありませんでした。ちょうど師父が来られる前の日の夜に、このことを担当した学習者が夢をみましたが、夢の中でこの会場はあまりに小さすぎると師父の啓示を受けたといいました。やはり翌日講義を受けようと切符を買い求める人が多すぎて、仕方なく「八一劇場」と連絡を取ってみたら、意外にも劇場の責任者は快く承諾してくれました。 
後になって悟りましたが、多くの事はみんな師父がなさり、私達はただ表面だけのことをやっていた。実は、師父が錦州に来られる前にすでにこの場をきれいにかたづけられたのでした。それは単に講習会をやる場所だからではなく、ある学習者によると異なる空間でみた錦州は業力がもうもうとしていて、とても汚かったが、師父が錦州で講習会をされた後に異なる空間ではとても大きい変化が発生したとのことでした。

 錦州の講習会に参加した人数は700人あまりで、中には他所の人が200人余りいました。師父が説法された1日目に天目の開いた学習者は、幾重にも重なり合った、異なる空間では佛、道、神が皆師父の説法を聞いていて、天上では仙女たちが花を散らしており、師父が何かおっしゃれば、異なる空間では何かが現れたとのことでした。師父が説法される時、手を振る度に無数の法輪が打ち出され雪花のように学習者の身体に落ちて、会場に掲げた法輪図形は自ら旋回して、格段に勝れ素晴らしかったといいました。 

 翌日師父が説法される時、突然外から40歳ぐらいの酔っ払いが、やかましく騒ぎ立てながら会場の中に押し入ってきました。守衛が阻止することができなくて、酔っ払いは会場に入り込んできました。ある学習者がそれを止めさせようと前へ出た、その時師父は彼女に「劉さん、彼に出てもらってください」とおっしゃりながら師父は手で何気なく入り口を指差さされました。ある学習者によるとその時師父の手から一筋の光が放たれたとのことでした。すると酔っ払いはすぐにその学習者に押し出されました。後で師父は「その酔っ払いはある気違い僧に制御され、法を伝えるのを邪魔しに来たのです」とおっしゃいました。また、ある錦州気功研究会の人が、講習会場で彼の何かしらの鍼灸模型を売り込みながら、学習者らに大法に抵触する言論を吐きました。その時師父はすでに説法を説き終え講壇を降りられたところでした。しかし師父は再び講壇に戻りマイクに向かってこうおっしゃいました。「あなたは講義を受けたくなければここを出てください。勝手気ままに論じないてください。そのようにするのはあなたにとってよくないことです」それを聞いたこの人は驚いて「ここの席は講壇からこんなに遠く離れているのに、彼は何で知ったんだろう」と呟きました。 

 また、ある日、師父の説法中、一人の興城市から来た尼僧が涙を流しながら聞いていました。彼女には師父が伝えているのは真法だということがわかりました。師父が「宇宙の中の神は皆手を離しました」とおっしゃると彼女は焦りだしながらどうすればよいか分からなく、泣きながら師父に「みな手離したなら、私はどうなるのですか?」師父は慈悲深く優しく彼女を見ながら次のように話されました。「みんなここにいるよ!釈迦牟尼仏、観音菩薩みんなここにいます!」尼僧ははたと納得しました。なんと天上の神佛皆が師の正法の手伝いに、衆生を救い済度しに来ているのである。彼女の心配そうな顔は喜びに溢れた顔に一変し、自分が幸いに縁があって佛法を耳にすることができたのを心より喜びました。それ以来尼僧は大法修煉の道を歩み始めました。 

 4月7日の日、師父と数人の学習者は錦州の筆架山に行きました。その時、ちょうど満潮になり、風波が強くなりました。下車した後、師父は海岸に立って、筆架山に通じる陸橋を見ながら「これは一匹の竜で、竜の頭は岸辺にあり、岸辺のこの井戸は竜の目で、竜の尾は海の中にあり、陸橋は竜の背中である」とおっしゃいました。師父とみんなは乗船しました、船が海面を走る時、船の両側では波しぶきがごうごうと逆巻き、頻りに船の中までにしずくがはね上がりましたが、しかし船の前方は静かな湖水のようでありました。 

 天目の開いた学習者によれば船の両側の、波しぶきの中にはたくさんの小竜が遊び戯れていて、時には小竜たちは師父の服の端をぐっと引っ張ったり、海面の上には八仙と大勢の神佛がいたと言いました。山に登る途中、師父は道を歩く傍らきれいに片付けをしてあげられました。山の上に着いて、学習者達は「三清閣」の中の神仏像8は各地で見た神仏像とは大きく違うことに気付きました。師父はこうおっしゃいました「これらの神仏は海の神であり、原始神に属します」 

 4月9日、師父は数人の学習者と義県にある大佛寺に行かれました。師父はそこの7体の佛像を見てこうおっしゃいました「ここはとてもきれいで、正である」ある学習者はこれらの大佛は師父が来られたのを見て涙まで流したといいました。師父は大佛寺で1人の解説者に佛法修煉の事についてお話して、また彼女に掌の上の法輪マーク見せました。その時この解説者は師父の掌の上で法輪が旋回するのを見て、悟るところがあり、その後、彼女はすぐ錦州で2日間講習会に参加してそれ以来修煉を始めました。師父が大佛寺を離れられる時、学習者らに両手を合わせ大佛と別れを告げさせ、師父もこれらの佛像に単手立掌をしました。この時学習者達の心の中では佛に対する敬慕の念が自ずと湧き出て、その厳かさ、神聖さを深く感じました。後から大佛寺では煉功場を設けました、学習者達は朝煉功するの時に何度も寺院の中の佛らが違う空間で学習者らと一緒に煉功するのがみえたと言いました。

 師父は錦州に来られ法を伝えられた期間中、常に、至る所で、すべてにわたって私達にとても正しい形象を残されました。その当時気功研究会は毎日車を手配して師父を会場までに送迎しようとしたが、師父は「このような事には気を使わないでください、講義を開始する前に私は必ず着きます」4月5日に法を伝えはじめてから、師父は毎日歩いて来られ、歩いて帰られました。しかし路上で師父に会った学習者はいませんでした、みんなは劇場の入り口で師父が来られるのを見たくらいでした。 

 師父の衣食は質朴でした。濃いブルーのスーツを着て、袖口は擦られ白になり、中には古いセーターを着て、足に履いた靴も古くなっていましたが、しかしすべてがとても清潔でした。宿泊所で、学習者らが目にした師父は蒸しパンにお粥あるいはインスタントラーメンを召し上がりました。時には市場でキュウリ、野菜をなど買ってこられました。しかし師父は常に学習者のことを考えて、みんなの費用を減らすため、師父は10講の授業を8講にして終わらせました。2日間は毎日2講の授業をしました。 

 今も覚えているが講習会を始めた頃、学習者達はまだ殺生問題についてそれ程あまり重視していませんでした。ある日師父は数人の学習者と一緒に食事をされていました。一人の学習者が1匹のしゃこをはさんで師父の皿の中に置きました、師父は食べないと言われながら皆にこうおしゃいました。「私はあなた達地元の人は好んでこれを食べていることを知っています。煉功を始めてからもまだ食べていますね。私が講義している時に、これらのしゃこはここまできて私にあなた達を訴えました。自分たちの格好が醜いことに不平をこぼしたので、私はそれらを魚に生まれ変わらせました」私達の修煉のため、師父は私達の度重なる転生の中で作った業力をどれだけ消去し、幾重にも重なり合う次元での怨恨を解決してくださったかわかりません。説法されながらも他の空間で弟子が殺害した生命を善解しておられました。本当に師父は 「世間の事で苦労を尽くし、天上の苦のため心を煩わす」(『洪吟・高処不勝寒』)です。

  講習会最終日の前日、学習者達から師父といっしょに写真を撮りたいとの要望があって、師父はみんなの要求を承諾されました。しかし数百人の人が師父との記念写真だと思い、皆あちらこちらで師父を引っ張りましたが、師父は始終穏やかで、親しみやすかったです。あの尼僧も師父と写真を撮ろうとしましたが、その時、彼女は普段着だったので、僧服を着て撮りたかったのです。師父は笑顔で彼女が着替えするのを待っていました。彼女は着替えを終わらせ、また包みの中からお坊さんの帽子を取り出して被ろうとしたが、突然一陣の旋風が彼女の帽子を空中に巻き上げ帽子は消え去りました。尼僧は茫々たる空を眺め、はっと悟りました。一心に大法を修煉して、師父について家に帰ると心を決めました。 

 4月12日夕方、講習会も終わり、師父は夜行列車に乗って北京経由で合肥に行かれることになりました。15日から合肥で講習会を開くことになっていたからでした。未だ覚えていますがその日の講義前に師父はスタッフと一緒に身の回りの荷物を3台の人力車で会場までに送り届けてもらいました。夕方に学習者たちは師父を駅にお送りして、車両の中である学習者が師父に「師父、私達になにか言い残すお話はありませんか」すると師父はこうおしゃいました「修煉を頑張ってください」その時みんなはこのお話をごく普通に感じましたが、今思い出しますと、このお話にはどれだけ師父の錦州弟子に対する切実な期待がこもっていたでしょうか!

 師父は錦州で法を伝えられた後でも、依然いつも錦州学習者の修煉情況に関心を示して下さいました。1996年師父が錦州に来られて法を伝えて2周年を記念するため心得交流会の後に、市の補導所は資料とビデオを師父に送り届けました。師父はそれを見られた後、資料に「より頑張ってほしい」との評語を書いて私達を励ましてくださいました。1998年6月28日、師父は再度義県の大佛寺に来られました。寺院の門番は師父がいらしたことに気付き学習者らに知らせました。一部の学習者らは幸せにも、いつも懐かしんでいた師父にお会いして、修煉中のいくつか問題の解答をいただきました。1998年12月30日の夕方、師父と研究会の数人の学習者は錦州に来られ各煉功場を回りながら学習者らを見られました。みんなその時、気づきませんでした。その日の晩、市内の石化、華新、華光、建行、凌園、冶金局などのいくつかの煉功場では、ほぼ同時に数人が来て彼らが煉功するのを見ていることに気付きましたが、みんなは補導員だと思い、誰も気にかけませんでした。その時ある学習者は、ある人が身辺で彼女の煉功を見ていると感じ、師父のようであるとは思ったが、しかし、あり得ないだろう、師父がいらっしゃると聞いてもいないしと思ったとのことでした。あとで本当に師父が来られたことを知りました。 

 師父!錦州の弟子たちは永遠に壮大な師の恩をしっかりと心に刻み、決して師父の慈悲深く苦労に苦労をして済度してくださったことに背くことなく、しっかりと三つのことを頑張って、円満して師父について帰ります。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/16/118744.html