日本明慧

観念を根本的に変える

文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2006年1月21日】私は、幼少のころから裕福な家庭で生活をし、60、70年代に人々が生活難に陥っていたとき、私たちが周りの人々を救済していた。それゆえ、私は幼少のころから、人助けをする習慣が身についた。学生時代から、自立して家庭を持ってまで、その習慣は変わらなかった。自分は簡素な生活をし、金銭、利益に対する執着心がなかったため、必要な人がいれば、気にせずに人に与えていた。法を学んでからはなおさらそうだった。

 迫害が始まってから、私は陳情のために上京したため、停職されて収入は半減した。しかし、私は子供が入学するための貯金も、気にせずに真相資料のために使った。2001年、私は家を離れて落ち着く場所がなくなった。数百元しか所っておらず、もう1人の学習者の面倒も見なければならなかった。また、月に200元の家賃を迫られても、私は気にしなかった。とにかく、私は、お金に執着してはならないと考えていた。資料作製費の出金も誤ったことはなかった。

 たまに、翌日に入荷する荷物に支払うお金がなかったりする状況に直面したこともあったが、そういう時でも、私は焦ることはなかった。そして、いつも他の学習者が思いがけない資金を持ってきてくれるのだった。私は、大法がすべてを融合し、師父は皆を見守っていると思っていた。当時、私は自分が金銭と利益において執着心がまったくないと思っていた。

 最近、私は邪悪の迫害により、家族および以前一緒に行動していた学習者と連絡が取れなくなり、生活も困難に陥ったときに、私の執着心が出てきたのだ。私は、常人のように、これまでの冷静さを失った。法の勉強、発正念、真相資料の製作時に、私は自分の経済問題をいかに解決するかを考えるようになった(邪悪の迫害によって、現在の私は仕事のできる状態ではない)。あらゆる考えが頭をめぐって、落ち着くことができなくなり、ついに、外へ向かって解決方法を求めてしまったこともあった。結局、私は真相資料の作製に専念できず、最終的に他の学習者が、長い時間をかけて、大がかりな修正をした。

 幸いに、私は最近法を暗記するようにしたため、動揺する自分の心は抑制され、自分にある執着心を取り除かなければならないと思った。私は法を学び、内に向け、執着心を放下するようにした。師父を信じ、大法を信じれば必ず乗り越えられると思った。数日後、ある学習者が私を訪ね、交流を通じて自分にあった難題が解決された。まさに、師父がおっしゃった「山窮水尽疑無路、柳暗花明又一村」であった。

 しかし、それから、私は本当に根本的に問題を解決していない気がした。生活上の実質的な困難が解決されても、自分の心の中では何かが残っている感じだった。私は何度も考え、そして、自分の問題をようやく見つけた。

 私はこれまで金銭に執着しなかったことは、異なる次元における異なる法が私に対する要求であり、自分はその次元における認識があってこそ、困難を乗り越えられた。私はあくまでも、自分の生活が保障された状態の中で、資金を提供し真相資料を作製したに過ぎないのだ。しかし、自分の心性を向上すべきとき、執着心が現れてきた。私の場合は、自分の生活保障のない状態の中で、執着心を本当に放下できるかどうかが問題だった。過去の私には、「この心を放下すれば、すべてが解決する」という考えが実在し隠れていた。これはまるで、問題解決のために心を放下するのであって、最終的には、何かを求めるために、心を放下したに過ぎなかった。

 求めることなく、自然に従うことは、法が自分に対する要求であり、基準であるのだ。私は、自分に存在している問題とは、これまでに金銭の執着心を取り除くことに尽力していなかったことである。私は、旧勢力が作り出した迫害を決して認めないし、生活にかかわる基本条件および環境を保有すべきだ。しかし、その基本条件および環境を失いたくない心があってはならないのだ。生活問題に困難が現れるのを恐れることは、苦労をしたくない現れであり、困難は実に自分の修煉にとって良い機会であると思い、正々堂々と法に従って自分を修めるべきだ。

 私は何度も師父の「最後になればなるほど、精進すべき」の経文を繰り返して読み、暗記するまでしたにもかかわらず、自分の観念を正すことができず、この頑固な観念を発見することすらできなかったことが根本的な問題であると考えた。師父が「2005年サンフランシスコでの説法」で、「先ほども話していましたが、修煉者の理は常人の理とは相反するものです。人間は気持ちよくいられることが良いことだと思っているのに対し、大法弟子はこれが向上にとって良くはなく、気持ちよくないことが向上にとって良いことだと思っています。(拍手) この根本的な観念を変えたのでしょうか?」と言っておられた。また、「大法弟子はなぜ修煉しているのでしょうか? なぜ関門を乗り越えなければならないのでしょうか? なぜ正念を強く持つ必要があるのでしょうか? なぜ苦しみを味わう必要があるのでしょうか? このようにしてはじめて、修煉だと言えるからです。実は修煉はほかでもなく、苦を嘗めにきたのであって、この世での守りを得るためにやってきたのではありません。大法を学ぶと守られますが、大法を修煉するとき苦も嘗めなければなりません」と言っておられた。

 これまでの修煉は常人の執着心を放下する過程であり、すべてないし生死をも放下するのではないのか? 最後の最後に、自分に対して安逸を放下するように厳しく要求すべきである。我々は、安逸を求める心は最も人を駄目にするものであることを知っており、安逸を求めれば求めるほど、自分が常人へ戻りつつあることの現れである。師父が「法を正す時期の大法弟子」で「もし、いまだに法を正す弟子とはどのようなものか、はっきり認識できないとすれば、今の苦難の中から抜け出せず、この世で安逸をむさぼる心に動かされ、邪な悟りにおちいってしまう。それら堕ちてしまった人に対し、師父はずっと心を痛めているのだが、多くはこの心に動かされてつぶれていった人なのである。」と言っておられた。

 私は、自分が持つ根本的な問題を見つけてから、心も明るくなった。これまで、自分は一部の問題において現れた優柔不断も、この観念によるものだと分かった。私は家を離れ、落ち着く場所がなくなってすでに5年が経っている。表面上では、私はすべてを失った。私は、日常生活において自分に対して厳しく律し、金銭の面においても自分のものであれ、他の学習者のものであれ、すべてを節約するようにした。しかし、もっとも肝心なのは、私は常人の執着心を放下し、法が要求する基準に達しなければならないのである。根本的に常人の観念を変え、安逸、心地よさ、名利などを求める常人の執着心を放下し、如何なる執着心の誘惑にも動ぜず、衆生の救い済度を阻害する一切を取り除き、大法を実証し、自らの道を切り開かなければならないのだ。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/1/21/119118.html