日本明慧


同修の善から自分の執着心を見つけた

 文/大法弟子 小宝

 【明慧ネット2006年1月30日】師父は「慈悲は天地の春を溶かすことができる」(「法は乾坤を正す」『洪吟(二)』)とおっしゃいました。同修との付き合いの中で私は深く体得しました。同修の慈悲心と善行は私を感動させただけでなく、更に深く私に教えてくれ、私を利己的な、私のための状態の中から抜け出させ、もっとよく法を正す修煉の中に溶けこませた。

 私はまだ小さいため、みんなの目の中で、私は小さな同修として見なされている。私の家族(同修)が邪悪な者によって不法に捕まえられた後、しばらくの間家には私一人しかいなかった。その後、私は会ったことのない同修が、家族の他の者に連絡して私の家にやって来て、私に米2袋、油1本、また多くのパンを買って持って来てくれた。これは皆の気持ちで、同修たちが出し合ったお金で買ったと言った。私はその時、それらのものを見て、心の中には師父の按排で届けに来たのだと思いこんで、口の上では同修にお礼を言いながら、心の中では、こんなにたくさんあれば、ずいぶん長い間食べられるだろうと考えていた! 同修は笑顔で、自分たちがすべきことだと言った。また今後の私の生活を気遣ってくれた。今思い出して、私は本当にとても利己的で、本当に同修がそのようにするのが当然のことだと思っていた。心をこめてお礼を言うことすらできなかった。しかし同修の私に対する善行は私を深く感動させた。

 その後、私は同修の韻さんの家にしばらく泊まった。韻さんの家族も邪悪に迫害され、不法に労働による洗脳を受けている。彼女が一人で子供を連れて生活するのもとても容易ではない。彼女は私に「宝ちゃん、あなたはお金が必要でしょう?」私はすぐ「いえ、私はあります!」と言った。実は、その時私は本当に韻さんのその言葉に感動した。彼女の語気はとてもやさしくて、私の自尊心を傷つけることがありうるかどうかも心配してくれていたと感じた。本当のことを言うと、そのとき、私は本当に涙を流したかった。ある時、同修たちは韻さんの家へ来て、私もそこにいるのを見て、皆喜んでいた。私の家族の情況を心配して、帰る前に私に2百元を差し出して、家族を見舞いにいく時に使うように、これは同修たちの気持ちであると言った。私は断りたかったが、最後にやはり受け取った。心の中で、私自身はまだお金を稼いでいないし、ましてこれも同修の気持ちであると考えたからだ。しかし、同修たちが韻さんにお金を渡したとき、彼女は受け取らなかった。それから同修たちが帰った後に、私は韻さんに「実はさきほどのは同修たちの気持ちで、どうして受け取らないの?」と聞いた。韻さんは私にただひと言だけ言った。「実は同修たちも楽な生活をしているわけではないのです!」この話を耳にして、その時私は本当に穴があったら入りたいほど恥ずかしく思った。また同修たちの善に感動した。私はこれまで同修たちがどのように生活しているのか、同修たちのお金はどこから来たのか、彼らに困難があるかどうか、彼らを助ける必要があるかどうかも考えたことがない。私はただ利己的で、自分の家族が迫害されているから、私は他の人に比べてもっと助けられるべきだと思い、同修のお金やものをもらっても、これまで顔が赤くなることはなかった。甚だしきに至っては、これは何でもないと思った。私はどんなに利己的だったのだろう!

 それから同修たちのこの善はずっと私の身近にあった。ある日私はおばさんの家に行った。おばさんが私に、ある同修はまたお金などを持って来て、私の家族に届けるように言っていると聞いた。その時、私はおばさんに「私達は同修たちのお金を使ってはいけない。このお金は、全部同修たちに返さないといけない。彼らも楽ではないから」と言った。そこで私は韻さんの家での事を話した。おばさんはその時賛成しなかったが、しかし後からおばさんも同修のお金を受け取らなくなった。まして以前もらった金額をすべてノートにはっきり記入して、これから返していくようにと言った。私はとても感動した。私は同修たちの善に最も不潔なものを洗い清められた。また同修たちが与えてくれた感動で他人を感動させた。

 同修たちの学法グループは各地に点在しているが、同修の音さんが私にある学法グループに来て欲しいと言った。その時私はとても喜んだ。しかし、その後、自分の恐れる心に抑制されて、各種のよくない心が出てきた。例えば、面倒だとか、尾行されるとか、役に立たないなど……。初めはいやいやながら行ったが、着いてから初めて皆自分のよくない執着に邪魔されていたのだと気付いた。その後、二回は用事で行けなかったが、妨害はすごく大きかった。私はやはりなんとかして行ったが、それまでに出会った妨害を音さんに話した。彼女は私に「あなたが来ていないとき、皆さんは、どうして宝さんが来ていないのかと聞いた」と言った。その時、私は心があたたかく感じた。同修たちはずっと私をこんなに気にしてくれているのか、まったく気付いていなかった。一瞬の間に、私のグループ学法を妨害する要素はすべて解体された。同修たちの私に対する善の中で解体された。私は、グループ学法に参加し続けていくことができると思っている。師父の弟子に対するご加護の中で、同修たちの善の中で、私は更によく行っていきたい。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/1/30/119774.html