日本明慧
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【明慧ネット2006年1月25日】内モンゴルの赤峰市梧桐花鉛?砿のエンジニアで、法輪功学習者・陳国祥さんは、2回不法に労働教養所へ送られ、巴盟五原労働教養所で迫害されて皮と骨になり、心臓、肺、腹に水が溜まり、2005年12月19日に冤罪が晴れないままに死亡した。 陳国祥さん(55)は、遼寧省遼陽電信学校を卒業。1998年から法輪功を修煉し、仕事も一生懸命にして、個人の利益を余り気にしない人だった。勤め先では技術の主幹で、評判もよかった。1999年11月、陳さんは北京へ真相を伝えに行き、現地の公安に一カ月拘留され、不法に200元の罰金を科された。赤峰市翁旗国安大隊の白雲飛は、ガソリン代と車の修理費として1600元を強制的に給料から引いた。 陳さん一家は2000年6月24日に現地の派出所に留置場へ不法に連行され、陳さんの妻は8月にジャ旗図牧労働教養所で2年拘禁され、陳さんと息子は不法に14カ月拘禁され、2001年8月に図牧吉労働教養所で3年拘禁された。図牧吉労働教養所にいる間、陳さんは修煉を放棄しないため、長時間寝かせない、ひもで吊るされるなど、いろいろな方法で拷問された。陳さんは何回も絶食で抗議し、如何なる保証書も書かなかった。 2003年4月中旬、陳さんが仕事をしていたとき、翁旗国安大隊の李景海などに強行に洗脳班に送られた。17日間苦しめられたが、信仰を堅持して、邪悪に協力しなかった。何人かの邪道に落ちた者が陳さんを攻撃し、長時間しゃがませたり、寝ることを許さなかった。赤峰610オフィスの洗脳ボス・楊春悦は、「転向しないと労働教養所へ送る」と、わめいた。610オフィスの人員は不法に陳さんの勤め先から4000元の現金をゆすった。 陳さんは2003年7月17日、翁旗留置場に不法に拘禁され、2004年1月、秘密に内モンゴル五原労働教養所で3年間拘禁された。その間、家族に知らせなかった、家族はあっちこっち尋ねても判らず、2005年1月にやっと内モンゴルのパ盟五原労働教養所で迫害されていることが分かった。 2005年2月24日に、家族は突然610オフィスから、早く五原労働教養所に陳さんを迎えに来るように通知を受けた。2005年3月6日、家族は2人の公安と五原労働教養所へ行き、7日に、五原県病院でやっと皮と骨になった陳さんに会えた。当時、陳さんは顔色が悪くて、かなりやせて、歩く力がなく、倒れそうだった。労働教養所は家族に「重病のため、服役中一時出所」の診断書を渡し、陳さんは肝臓腹水、肺結核、心臓機能不健全だと書いた。情報によると、このような深刻な病状が出る前にも、陳さんは全身に力がなく、歩くとあえぎ、昼夜ずっと咳をし、息が苦しかった。病院で検査したとき、医者は必ず入院するように言ったが、邪悪は陳さんに対する迫害を止めなかった。毎日2人で陳さんを監視し、夜寝るとき陳さんの両手をベッドに縛りつけ、トイレへ行くのが不便なため、水を多く飲めなかった。趙乃東という悪警官は陳さんの病状が悪くなった時、ペンと紙をもって陳さんに三書を書くように強いたが、陳さんに断わられた。 陳さんが労働教養所にいたとき、家族は医療費の1700元を払うように通知された。家族は払えなかったため、2人の公安が保証のサインを書いた後、280元の現金を払って、やっと開放された。 陳さんは家に帰った後も、現地の公安と、610オフィスの不法人員は依然と掻き乱しに来た。掻き乱されることを避けるため、一カ月後、陳さんは外地に病気治療に行った。数年間の精神と肉体の迫害を受けた後、陳さんは9カ月以上路頭に迷い、2005年12月19日に冤罪が晴れないまま死亡した。 死亡する前、陳さんの尾?骨のところには卵よりも大きい穴があった、肛門までの肉がぼろぼろで、肛門がなくなり、大便が正常に出なくなり、大腸から直接外に流れ、尾?骨がすでに外から見えていた。
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