日本明慧
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文/台湾大法弟子 【明慧ネット2006年2月3日】修煉して以来、旧暦新年の休み期間中になるたびに、周りの常人たちは楽しそうに年越しの準備をしているが、私はあまり喜べない。なぜなら数日の休みのため、私の平日の修煉のスケジュールが乱れたからだ。人妻である以上、必ず嫁ぎ先に戻って、親戚一家団欒して過ごそうと、お祖母さんから再度催促されて、家事で忙しい私は、いつもならパソコンを通して真相を伝えていたが、嫁ぎ先にはパソコンがないため、実家のパソコンを自動で真相を送信できる状態に設定することしかできなかった。休日に三つのことができず、大変悲しく感じた。 今年嫁ぎ先に帰るとき、私の気持ちはまたドン底まで下落していた。休日の間はよく修煉することができないと思って、不満を感じた。早く実家に帰ることで、初めて三つのことができると思った。実はこの考えはすでに強烈な執着心になっていて、ひたすら外に向かって探しているからだ。嫁ぎ先に戻る前日に、私は『2004年ニューヨーク国際法会での説法』を読んでいると、まるで師父が私に向かって説法なさっているかのように、私の心の深くまで感動を与えた。 「先ほどの話は大法弟子の今日の修煉方式と過去の修煉方式との違いを大まかに概説しました。済度されたければ、人間は必ず自らこの厳しい環境に身を置き、困難から、利益から、情欲から抜け出さなければなりません。如何なることも修煉者の切実な利益にかかわり、如何なることもあなたという人間、あなたの考えと情緒、あなたの心性、あなたが考えの中で執着しているものに刺激してしまいます。どのように対処するのか、何を選択するのか、ここに違いがあります。違った対処のしかたをした人は、常人なのです。常人の理から、常人の執着から抜け出すことができれば、あなたはつまり神です。」 「以前、人間は廟や修道院、山に入り、世の人々を避けて修煉していました。修煉している人の身体自体は心性に対する試練と執着に対する直接的な刺激、利益に対する最も直接的な検測をそれほど経験しませんでした。ですから、その人自身が修煉していないことになります。人生の中で人間としての普通の生活を放棄したとはいえ、本人にとって、別の生活方式を選んだということに過ぎません。」と師父は説法の中でおっしゃった。 全くその通りだ。どこでも修煉する環境であり、真相を伝え救い済度すべき縁のある衆生がいるのだ。年末にならない限り一堂に集まらない親戚たちに真相を伝え、法を実証するよい機会ではないだろうか? なぜ修煉の場所と対象を限定するのだろうか? 修煉に休みはなく、私たちは随時随所で「真・善・忍」を実践することで、初めて周囲の人々に私たちの善と慈悲を感じさせることができる。これこそが師父が私たちに残した修煉の道であり、深い山奥で修煉するのではなく、常人社会の中でできるだけ常人に符合して修煉することで、大法弟子の風貌を見せるのだ。 突然、私は恥ずかしく感じた。今日までの数年間は機会を逸して、法を実証する機縁を失ったからだ。今年こそ、嫁ぎ先だろうと、実家に戻ろうと、大法のすばらしさをすべての親戚と友人たちに伝えなければならないと、決心した。最も重要なのは、繁雑で煩わしい環境の中で法をしっかり学ぶことであり、少しでも時間が空いたら『論語』を暗誦したり、正念を発したり、自分の心を清らかな状態に保てるように努めた。私は大法の真相資料、本のしおり、カレンダーおよび新唐人交歓パーティーのディスクを準備して、この団欒を機に、周りの友人や隣人たちにも大法のすばらしさを伝えたいと思った。 今年の新年、私はずっと持っていた執着心を放下することができ、すべての人、事、物の前で平然としていられ、美味しいもの、面白いものおよび自分の興味を引くものなどを見て、心がどのように動くかの試練が常にあった。師父は『転法輪』の中で、「われわれのこの法門には常人の中で修煉する部分があって、常人社会の中で修煉し、最大限に常人と一致を保つよう要求しているのですが、物質的な利益において本当に何かを失うようにさせるわけではないのです。あなたがどれほど地位の高い官職に就いたとしても、いくら大金持ちになったとしても、いっこうにかまわないのですが、鍵は、その心を放下できるか否か、ということにあるのです」とおっしゃった。私は、常に修煉者であるように、執着しないように自分を律し、時にはよくできなくても、次回こそは必ず突破するようにと自分に言い聞かせた。修煉は苦難や矛盾の中で悟られるものだ。 修煉はつまり私たちのこの心を修めているのであり、いかなる環境に置かれても、どのような人と向き合っても、私たちは自分をよく修め、同時に真相を伝え衆生を救い済度できるのだ。なぜなら修煉には休みがないのだから。最後に、『2004年復活祭ニューヨーク法会での説法』の一節で結びたいと思う。「さらに社会と常人の中にある自分の姿をも考慮しなければなりません。大法弟子はどこにおいても良い人なので、常人社会、職場、家庭、社会の各方面のお付き合いの中で、人々に大法弟子の正しい姿を残さなければなりません。条件が限られているため、何かをするときにとても難しく厳しいのです。しかし、こういう状況であっても、法を正す道を正しく行わなければならず、ずれてはいけません。正しく歩みたければ、ご存知のように、正しい道は一本しかなく、この道から一歩でも踏み出したら、ずれてしまいます。ずれてしまってはいけないので、私たちが歩んでいるこの道はそれほど広くないように感じます。気ままに行動し、やりたいようにやってしまえば、それはいけません。このようにしてしまうと、法が正しくならないのです。皆さんは法を証明する道を正しく歩むべきです。一歩一歩、一つ一つの出来事、大法弟子の言動も含めて、社会の各方面での現れを正しくしなければなりません。」 次元が限られているので、不足があれば、ぜひご指摘お願いします。
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