日本明慧
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文/長春の大法弟子 【明慧ネット2006年1月30日】 師父が講習会を開かれた時、よく各種の妨害がやってきたが、師父はいつも落ち着いて問題を解決され、しかもかえってそれらのことを利用して学習者を鍛える機会に変えられた。 94年長春で第7回の講習会を開催した時、講習会が始まった翌日、師父がちょうど法を説き始められた時に停電をした。講壇の下に1600人ほど坐っていた。どうすれば法が聞けるのか、私たちは焦った。師父は少しも焦らず、「あなた達はテープ・レコーダーがあるではありませんか? 乾電池をいくつか買って、テープ・レコーダーの2つのスピーカーを利用すれば、問題はありません。今日は先に煉功動作を教え、後で説法しましょう」といわれた。 私達は乾電池を買いに行き、その間、他の学習者たちは煉功動作を学んでいた。後で講堂の管理人に聞くと、それまで停電したことは一度もなかったという。これは間違いなく妨害だと私たちは分った。講堂の管理人は、テープ・レコーダーのスピーカーを利用して、千人あまりの人に法を聞かせるなんて、大法と大法弟子はとても不思議だと言った。 それから、私達は一度師父の説法のビデオで勉強会を行ったことがあった。その時も同じく停電した。真っ暗闇の中、師父がこのような情況下でいかに処理されたのかを思いだし、あわてる者もなく、一人が管理人に連絡に行っている間、学習者の修煉体験を紹介した。みんなとても静かで、席を立つ人はいなかった。故障はすぐ直り、勉強会は順調に行われた。 修煉上で、最初から師父と法を信じるか否かの試練がずっと存在している。妨害は、真に修煉する学習者に対して恐ろしいことはなく、何の作用も起こらない。しかし執着心を抱いて求める人にとっては、大法とすれ違いの原因になるかもしれない。 93年に、ある小さな新聞社が師父の気功師の証明書が有効か否かと攻撃した。このことについて同修間で交流を行い、最後に師父は人を救い済度するために下りて来られた大覚者であり、世間に何かの職名を認定してもらうために来られたのではないと確認した。しかし別の煉功場では、とても精進しているように見える一人の学習者は、その新聞を見た後、修煉をやめた。師父はこの事件を無視された。その小新聞はある夫婦2人でやっていて、気功師がその町に行って講座を開く時は、かれらは毎回賛助費の名目でお金を請求するのだが、それらをしないため、師父を攻撃するのだと師父はおっしゃった。師父はそのことを取り合われないので、彼らはそのことで自滅した。 師父は1995年12月21日に発表した経文『誰のために修めるか』の中で、「また他の面から見れば、修煉とは常人を超越することだが、誰であろうとも一様に、彼の気功に対する批判といったものは常人の認識ではないのか? 彼には佛法と修煉を否定する資格があるのだろうか? 人類のいかなる組織が神佛を超越できるのだろうか? 気功を批判する者に佛を指図する能力があるのだろうか? 彼が佛は良くないと言ったなら、佛は良くなくなるのだろうか? 彼が佛はいないと言ったなら、佛は存在しなくなるのだろうか?」といわれた。 7.20以後、中共グループが法輪功と師父に対してデマを飛ばすことや、誹謗中傷は更に天地を覆い隠すほどである。この状況下で、真に修煉する弟子は師父と法を固く信じることによって歩んできた。 一部の妨害が学習者の内部から発生している。93年ある雑誌は1冊の特集を出版して、文芸の形式で師父の生涯、修煉と法を伝える過程を紹介した。ある学習者はこれを見ると大法と師父の情況に合ってないのに気が付いて、総補導点に批判するように求めた(これは明らかに党文化の思惟方法である)。師父は何度も彼らにそうしないように説得された。 師父はあの作者の出発点は悪くない、ただ彼は講習会を2回聞いただけで、また、文章を書く目的を抱いて法を聞いたので、真に法を理解していない。それに文芸作品は生活のなかで生まれたもので、学習者はそれを法として学ばなければよいので、何の批判もしないでくださいとおっしゃった。師父が何回もいわれて、学習者はやっと落ち着いた。あの事の処理を通じて私は師父の寛容さ、慈悲と博大な心を見た。 師父は常に、この法門は常人の中で修煉しているので、修煉者は最大限に常人社会の状態に符合して修煉するようにとおっしゃった。この話の内包がとても大きいと感じ、繰り返しこの話を学び、やっと当時師父がなさったいくつかの事についてだんだんと分かるようになった。 その後、一部の学習者は法を正す時期がもうすぐ終わると思い、するべき事をしなくなり、円満成就を待つだけで、結局自分の生活にとても大きな困難をもたらした。実はすべてが師父の話に従っていないからなのだ。 大法は千秋万代永遠に伝わっていき、師父の言行は未来の人類に対してすべて影響がある。師父は『ニューヨーク座談会での説法』の中で、「法を伝えていると同時に、私も身を以て教えています。私の些細な振る舞い、ひいては私の服装の様子をも真似する人がいるため、私はこれらの大きなことや小さなことに非常に気をつけています。正法を伝えるのみならず、私の身なりも正しくしなければならないのです。」と言われた。 師父は自分の言行に対して非常に注意をしておられる。たとえば私は幸運にも、何度も師父と同じテーブルで食事をしたことがある。師父もお肉を食べられる。しかしとても少ない。師父がお肉を食べられるのは、人類にお肉が必要だからで、とても少ないというのは修煉する人として、お肉に執着してはいけないからだ、と私は理解している。
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