日本明慧
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文/河北大法弟子 【明慧ネット2006年2月27日】莬絲子という植物がある、生存方式は他の植物に寄生し、栄養を吸収して、大豆の大きさ位の黄色の花が咲き、寄生された植物は枯れて死んでしまう。二十何歳の時、私は世の中で安全に生活できること考え、莬絲子のような弱い者の生活方式を学び、そのときから、大千世界で傷つけられなくて生きていけると思ったが、修煉するまで傷つけられながら生きて来た。 個人修煉の段階で、ずっと精進して、なにかあったら、内に向かって探したが、正法修煉が始まってから、法に基づいて修煉していると思いながら、些細の観念、私心で現れた変異した観念と共産邪霊の妨害は、邪悪が隙につけ入るところとなった、わずかな法の言葉に根拠を探し、ずっとそのレベルから突き出られなくて、とても苦痛だと感じた。最近あったことは、ある同修は拘禁され、ある同修は病状が出た、ある同修の子供に病状が出て妨害されるなどである。これらを見て、確かに全体的に協調、協力の問題がある、同時に修煉の厳粛性を感じた。もっと内に向かって探すと、修煉に対する認識がはっきりせず、人の考えで、自己に執着し、常人の中で、できた観念は、法理に対する認識に深く影響し、法を証明することに影響した。 修煉を始めたばかりの時を振り返ると、「師父に自分を保護してくれることを求めた」、自分は自分を保護できないと思ったからだ。師父はおっしゃった、「わたしの法身は皆さんが自分で自分を守れるようになるまで、ずっと守ってさし上げますが、」私は思った、どうすれば自分が自分を保護できるのか?(実は人間の考えだった)。そして、人の手段、人の方法など。ある日、数人の私服の警官が私の勤め先に来た、突然の環境の変化であったが私はただ「一念の違いだ」と感じた。私はもう弱くなく、私は最も正しく、正々堂々として、私は信仰があるのだ、正法を得た正しい気風はいつからか溜まっていた、そして、私は警官に反問した、「私は中国の国民か?」警官らは、「はい、そうです。」「私は信仰の自由があるか?」「はい、あります。」「私は自由があるか?」「あります」。私は言った、「じゃ、あなた達はなにしているか?私の家にどれだけの傷をつけているか?私の勤め先にどれだけの傷をつけているか?周りの人にどれだけの傷をつけているか?…」悪らつな警官はすぐ「続けて言ってください、言ってください」といいながら、離れて行った。私は家に帰った後に怖くなって、両足が震え、手足も冷たくなり、すぐに本、資料を整理した。(公安、私服の警官は何回も家を捜査した)、私は慌てた。 このとき、二人の同修が久しぶりに家に来た、短い交流でわかった、硬く旧勢力の按配を否定する、師があり、法があり、やっと落ちついた。同時に個人の執着を探し、学法が少なかったため、全体の協調がうまくいかなかった。ある同修が私に一冊の新経文を渡した。『2005年カナダ法会での説法』の講法の中で「いかなる情況と環境下でも、正しい理を守るべきであり、いかなる情況下でも、人間は従うべきものです。どんな環境の中にいても、修煉者が十分な正念さえ 持っていれば、大法によって向上し、大法から啓示と助けを得ることができ、これによって正念が強まり、いかなる常人の手段、邪悪の誘惑にも妨害されません。」法に基づき、主意識が強ければ、正念の作用が現れる。 なるほど、修煉はこういうことなんだ。私はもう平静で、安全な生活を求めなくなったが、なにも失わなかった。「なぜ高次元になると修煉ではなく、選択なのか」の法理を多少理解した。 今日まで修煉して、多くの邪霊、観念はなんでもなくなった。実は、あれらの敗ける物は発正念の中で解体した。正法修煉の最後の段階になり、私は潜在していた「莬絲子」の意識を徹底的に取り除いた。衆生は私たちを待っている、私は衆生のために存在している、なんで他の生命の莬絲子になるのか?!現在の要求はもっと精進し、絶えず学法し、すべての妨害を取り除き、師父と一緒に法を正し、私たちを待っていてくださる師父が失望しないように、また待っている衆生が失望しないように、私たちはこの瞬間の機縁を捉えて、すべきことを行う。 不適なところあれば、ご指摘願います。
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