他人の長所を見習うことと、短所を論じ合うこと
文/膠州の法輪功学習者
【明慧ネット2006年3月9日】わたしの周りの同修の中に、二つの種類がある。一つは、他人の長所を見習って、自分の短所を補う人である。
例えば、自分が真相を伝えることを怠ったときに、たくさんの老年の同修たちが天気の良し悪しにかかわらず、遅くまで苦労をいとわないで真相資料を配布し、スローガンを書き、横断幕を掲げていたのを思い出すと、自分の怠る人心が非常に恥ずかしく感じて、自然と真相を伝えることをするようになった。また、例えば同修が真相資料を配布するのは、自分より少ないが、この同修はどんな場合でも、どのような人の前でも、いつも真相を伝えることができ、これはまさに自分ができないことであり、見習うべきところである。そこで、この同修について長期にわたって観察してみたり、その経験を聞いたりして、自分の短所を突破しようとしてみた。
このような考え方には、どのようなメリットがあるかは、言わなくても分かるだろう。つまり、互いが互いの長所を見習って、それぞれが自分の短所を補うことができれば、このような環境は必ず圓容していて、崩れることのない修煉の環境ではないだろうか。修煉者同士の間で風評を流したり、互いに攻撃したりするような現象も自然となくなるだろう。なぜなら、邪悪は隙に乗じる漏れがないからである。このような心構えこそが、師父がわれわれ全ての真に修める修煉者のあるべき状態であり、つまり、師父が言われたような、「学んで比し修して比す 做すところ到るは是れ修」である! ほかの同修がよく修めているところを見て、自分の不足を補うことが本当にできれば、それこそ真に修める修煉者である。もちろん、師父のこの説法にはもっと深い内包があるが、ここで述べたのは、個人の理解にすぎない。
もう一つとは、他人の短所を見て、常に他人の不足を探す人である。他人の不足について論じ合えば論じ合うほど、すべての他の同修には不足があり、自分が最も完璧であるかのように感じる。このような修煉者は、ほかの同修の長所と比べてみたこともなく、師父の法にしたがって自分を修めることはなおさらである。
このような心構えの欠点とは何か、言わなくても分かるだろう。
最後にもう一つ付け加えたいが、膠州地区は最近、邪悪が非常にはびこっている。これは、膠州地区の全体の大法弟子とも関連している。私達すべての修煉者が自分の内心に向かって修め、本当に刻一刻と内に向かって修めることができたのかを見てみるべきだ。もしすべての同修が三つの中で精進し、法の中に溶け合えば、膠州の邪悪も自ら散っていくだろう。
個人の悟りにすぎず、正しくないところはぜひ指摘してください。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/9/122383.html)
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