日本明慧


自分の根本的な執着を探す

 【明慧ネット2006年3月12日】最初に『転法輪』を読んだとき、これは私が一生にずっと探していたものだという気がした。しかも私の今までの人生の中で知りたくても答えが得られなかった数多くの問題を解釈してくれた。私は、これはよい本で、本の要求にしたがってよい人になるように努力し、さらによりよい人になるように努力していき、最後に円満成就できるようと希望している。

 他人のように健康な体を求め、あるいは他の目的を抱いて修煉の道に入ってきたのではなく、最初に修煉を始めた考えが非常によかったと思った。だからほかの修煉者はみんな自分の根本的な執着を探しているときに、私は探しておらず、探しても見つからない。なぜならよい人になるのが執着ではないからである。しかし、最近になって、絶えず法を学び、法を暗記するにつれ、自分の根本的な執着をよりはっきり認識するようになった。自分の根本的な執着がこれほど深く隠れており、しかも気づきにくい。私はひとつの私(し)のため、あるいは我のために大法の修煉に入ってきた。この心を見つけた後、生活の中のさまざまな困惑をみんな理解できるようになった。

 最初に、私は非常に責任を負わない人で、あるいは悪い心を持っていない。しかし、自己中心であるため、有意にせよ無為にせよたくさんの悪いことをやってしまった。たとえば、最初に結婚しなかったときに、母親は体調がずっとよくなく、父親は毎日疲れているようで、仕事が忙しく、怒りっぽくて、私は他人のために何かをやろうとまったく考えておらず、他人を考慮する心もなく、他人に関心を持たず、他人からの関心を求めなかった。結婚は私にとって単なる環境を変えただけで、あるいは私の結婚の目的は当時の家庭から逃げたいためであった。私はいい妻になるつもりもなかったし、いかにするかも知らなかった。当時私の唯一の喜びは私が自由の身になったことであった。当時の私にとって結婚というのは自分の家から離脱する唯一の方法であった。結婚した後も、私は以前のままで、幸いに夫の家は伝統的な家であり、しかし私はなれていない。特に最初に義理のお母さんの私への関心を私がなかなか受け入れられなかった。なぜなら、私は監督する人がいてほしくないし、私は自由自在のほうが一番いいと思ったからである。たまには他人のために何かをやりたいけど、それは私がやりたいときのみの考えだ。

 私は大法に入った。大法はまず、何をやるべきで、何をやるべきでないかをわからせた。心に制約があるから、行いにも現れてきた。何をすることにも基準があり、思いのままにしてはならないことを知るようになり、私も積極的に家事を分担するようになり、他人の面倒を見たりすることになった。しかしながら、それはみんな責任のためにやっているわけである。

 他人を先に考慮し、自分を後にすることを成し遂げたと思ったが、自分がいつも苦を感じ、不平を感じるようになった。私はより多くの家事を分担することができ、他人をより多く考えることができ、子供の面倒をより多く見ることができるが、気がふさいでおり、何かの報いを求めているような気がする。

 法の中で自分に「善」が足りず、他人を考慮する心が足りないことがだんだんわかるようになった。法理上、私は認識したが、行為上できるだけ努力するようになった。しかしながら、私がこれらをやるのは本当に他人のためでなく、自分の修煉のためであり、自分の円満成就のためにやっている。基点はまだ自分のためであり、だから私はいつも報いを期待している。

 そのときから、私は師父がおっしゃった「善」と「慈悲」のことを体得し始めた。これは完全な奉仕であり、報いを求めず、単なる他人のためで、自分をまったく考慮しない、私の足りないのはまさにこれである。

 私の家族はみんな私のために心使いをしており、環境の厳しいときに彼らは私のことを心配しており、私が失業したときに彼らは私のために関心をよせ、夫は私が路頭に迷ったときに莫大な圧力を引き受けた。しかし、私は本当に彼らに関心を寄せたことがあるのだろうか?私は非常に後悔しており、これほど長年修めて、最近になって初めて『転法輪』からこのことを見出した。今までずっと「私(し)」が私を妨げていた

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/12/122653.html