日本明慧


師を信じ、師を尊敬することについて

 文/河南大法弟子

 【明慧ネット2006年3月1日】

 一、神を尊敬しないことは変異の表れ

 師父の説法から私は悟った。多くの人がもはや神を信じない、神を尊敬しない、またなぜ神を信じるかを知らない。どうすれば神を尊敬し神を信じるというのか、それらはすべて旧勢力の按排である。これこそ我々が正すべきことである。また、これらの変異も我々の修煉につきまとい、我々の「勝手」や「不敬」にも現れている。

 たとえば、大法の経文をどこにでもおく。師父の写真をほかのものと同じ机の上においたり、さらにある同修は師父の写真の隣に薬箱を置いた。嫁が孫に薬を与えるためにおいたと彼女は言い訳しているが。孫は彼女と一緒に師父を拝んでいるが、嫁さんはそれを認めていなかった。彼女はわずらわしいと思った…。これは偶然か?ある同修はご飯を食べるとき、歩いているとき師父の説法を聞くのが好きなようだ。法を学ぶときは、襟をただし、正座すべきである。ご飯のときや、歩くときは、正念を発し、法を暗記したほうがもっといいのでは?ある同修は他人が師父の名前を呼び捨ててもまったく気にしなかった。さらに我々の修煉体験の中で、資料の中で師父の名前を書いている。私の知る限り、古代では君主の名前や両親の名前を直接呼ぶのを避けていた。師父はもっと大きな仏で、人間が彼の名前を呼ぶと彼を罵ることだと教えてくれた。私が子供のとき、他人を罵りたいときはよくその人の両親の名前を呼んだ。私は他人が師父の名前を呼び捨てるとき、真剣に彼に師父の名前を呼ばないように注意した。すると彼はそこで口を閉じるか師父と呼び方を変えた。

 資料を作るとき、誤字、脱字などの現象がある。一文字は小さいが、しかしマクロにどのくらいの空間があるだろうか?ある同修の夫が大法資料の中の誤字脱字をみつけたときあざ笑った。これが人を救うといえるのだろうか?ある同修は条件があるが師父を供養しない、あるいは新鮮でないきれいでないものを随意に供養している。また、師父や大法を話すとき、場所を選ばなかった。12歳の娘が私に彼女がトイレにいるときに修煉のことを話したことについて注意したことがあった。

 そうだろう、私たちを含めて、今日の人間がもはや何を「敬い」、何を「信じる」というのかを知らない。しかし私が思うに両親を尊敬するよりも何万倍にも尊敬する心を持てばわかるのでは?

 二、人を正し、己を正し、未来に正しい道を残す

 大法弟子として、正しく話し、正しい品徳をもち、正しく振舞うべきである。人々は我々をみている。だから変異した宗教行為を学んではいけないと思う。当初多くの人が師父や大法を中傷した、彼らはすでに危険な状態にいる、我々は人々に師を尊敬し法を尊敬することを教えなければならない。彼らは自分の罪を早く償うべきで、彼らにさらにこのうえ大法や神を冒涜させるべきではない。

 師父のすべての説法の中で、ある人を共産党から脱退させるのは彼を目覚めさせる最初の一歩に過ぎないと悟った。彼自身が行動を起こし、迫害に反対し、心から師や大法を尊敬し、初めて未来がある。もちろん我々もしかりである。

 大法を信じることの目的は病気治療や健康になることではない。我々は人々が誤って大法を求めるよう誘導してはならない。ある常人がよく大法がすばらしいといくらいっても、もし昔大法を中傷する文章を書いたとすると、彼はすでにこれほど大きな罪を犯し、もし償わなければ、真剣に大法に対する過ちを償わなければ、神々が彼を残すと思うのか?師父は何回か大きな淘汰があると言われた。本当に大法を信じ、大法を尊敬し、本当に心から過ちを後悔し、過ちを償う人しか新しい宇宙に入れない。本当に衆生のためを思うなら、人々を誘導し、迫害に反対するように勧めるべきである。

 私のある同僚が大法に同情している、しかし彼女は過去に迫られて大法を中傷することにサインした。私は彼女に「師父は言われた。人が世の中で行ったことについて返さなければならない、たとえ強制されたとしてもあなたは罪を犯している。あなたが因果報応されないように、早く赤いペンでいっぱい法輪大法がすばらしいと書いて、私が張り出してあなたの罪を償おう、私を信じてください」と言った。彼女はまじめにそれを実行し、私が彼女を手伝い、書いた紙を張り出した。これで一人の人が本当に救われた。

 人々はだれもわかっている一面がある、共産党が人々に強制して大法に対して罪を犯させた。我々は「真、善、忍」で人々を導き、彼らの正念を導き、いろんな行動で師や大法を尊敬する、これこそ我々の使命である。

 師父はこういわれた。「旧勢力が法を尊敬しない、筆を振るって狂った波を滅ぼす」(「洪吟(二)・震え上がらせる」)我々はまじめに修煉文章を書き、地元に必要な手紙や真相資料を書き、書き出せば旧勢力を否定し、心で我々が師を助け、法を正す道を開く。師父の「偉大なる法、偉大なる時代は最も偉大なる覚者を造りだしているのである」(「精進要旨(二)・弟子の偉大さ」)を読んだとき、私は涙を流した。慈悲なる師父が、我々にすべてを与えてくださった。衆生のために耐え、我々は自分のすべてをささげても応えない、しかし師父はただ我々が本気で修煉し、善に向かう心のみをみておられる。我々がもっとも純粋できれい、もっとも敬虔な心で師父と大法を護るのではないか?資料に経文を印刷すべきでないと私は思う。「大法師父」と師父の名前を置き換えるのはもっとふさわしくないか?もし人々に我々の資料に師父の名前がなく、我々が常人に直接師父の名前を呼び捨てることを許さなければ、常人がそれをするのか?それができると思うのか?

 個人の悟りで、不当なところあれば慈悲なる指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/1/121810.html