日本明慧
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文/大法弟子 【明慧ネット2006年4月2日】瀋陽蘇家屯の強制収容所が暴露されて、多くの人が驚きました。特にわれわれ法輪功学習者は驚いただけではなく、怒りを感じました。だからこそ、私たちがまず思ったのは邪悪によるわれわれの同修に対する虐殺を一日も早く制止させ、邪悪を暴露することです。同修の皆さんは時間を有効に使い、多くの有意義なことをやってきました。しかし、私が心を静めるとき、同修の中である執着心が現れてきたと突然気づいたのです。これは、ある一部の同修がやるべきことを行っているが、しかし、正念で問題を見なしているのではなくて、常人の心、つまり常人が迫害を反対するという心で、大法の事を行っているということです。 私たちの中に、証言の信憑性、証人たちの述べたことの詳細を証明することに集中している、あるいは人々が真相に対してどのぐらい理解しているかどうかを考えずに、誰に対しても同じ様な角度から、同じ情報を伝える、または常人社会の中で形成された考え方で問題を分析している学習者は確かにまだいます。これらは私たちの修煉の過程で起こりうることだとはいえ、自分がゆっくり修めていれば、また自分がなかなか気づかなければ、より多くの難儀がもたらされます。99年7月20日以前、もし私たち一人一人の正念が強く大法の基準に達していたら、旧勢力が段取りしたこの邪悪な迫害は全く起きなかっただろう。また、もし当時私たちが常人の中での地位、悪党の何々会議、悪党の何々組織に対して執着しなければ、法を正すという進展の中で厄介なことはより少なくなったし、済度を待っている衆生が受ける損害も限定できたかもしれません。 だから、一人、二人あるいは何人かがこのように考えて、理智や智慧を持たず、頭があまりすっきりしていない状態が現れてもまだ問題にならないのです。しかし、もしもっと多くの同修がこのような状態に陥っていれば、これは大変なことになるのです。邪悪は私たちの良くない状態を見て、私たちの執着心を取り除くために何かの妨害をしてくるに違いありません。したがって、この良くない状態に気づかなければ、師父の正法の進程に支障をきたして、また一つの新しい教訓になると思います。私たちはまず基本を正さなければなりません。学習者はいかなる事を行うときも、まず法を実証し衆生を済度することを第一にしなければならず、個人の考えや感情や功徳への執着心を捨てるべきです。しかも、私たちは人々の受け入れる能力に基づいて、理性を持って智慧で法を実証し衆生を済度すべきだと思います。 もちろん、私たちが同修を救うことは一刻の猶予も許されないことです。しかし、私たちはただ同修を救い出して邪悪を制止させるだけではなく、このことを通じて、法を証明し衆生を済度する有力な武器だと見なして、理性を持って智慧で行なっていけば、人々ははじめて中国共産党の悪魔の本性を認識できるでしょう。すべての人々が認識できるということは、悪党邪霊が完全に崩壊する事を意味するのです。したがって、邪悪に迷わされた人々ははじめて済度を得られるのです。
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