(明慧日本2024年10月26日)
三、尊師の配慮
尊師の弟子への関心について大連の弟子からの話は山ほどある。
① 師父は、我が家の状況をよく知っておられる
一人の学習者の思い出——
師父が大連で二期目の伝授班を開催されたときに私は手伝った。ある日、説法の休憩時間に師父が「どう、生活に困難があるの?」と親切に私に聞かれた。私はちょっとびっくりして「師父がどうして私の家の経済状況を知っているのか?」と不思議に思った。「いいえ、問題はありません」と答えた。師父は「大丈夫?」と訊ねられ、私は目に涙を浮かべながら「はい、大丈夫です」と答えた。すると、師父は「食べ物や日常生活用品が間に合うならば十分です」とやさしく言ってくださった。
この言葉は私の心を打ち、私個人への配慮でもあるが、私の修煉を指導する重要な法理でもある。「修煉者は人間になるためではなく、世間を出て、覚者になり、返本帰真のために上へ修めている者であり、世間は単に数日間泊まるだけのもので、世間のすべてのことを淡白にし、執着しないようにすべきだ」と師父が教えてくださった。「食べ物や日常生活用品が間に合うならば十分です」。この言葉はずっと私の心に銘記しており、困難に直面したとき楽観的な心理状態を保ち、心が動じないようにさせるだけでなく、同時に私の精進や執着の放下と着実に修煉することを指導している。この法理は今までずっと神の道を歩いている私を指導している。
師父と一緒にいた日々、師父はいつも顔に微笑をたたえ、どんなことも先に弟子を考慮し、師父の話はいつも人の心をうち、話しぶりはいつも親切でやさしく、師父のそばにいると、いつも慈悲で和やかで暖かく感じた。
② 師父が車酔いの学習者へ配慮
一人の学習者は1994年6月に成都で開催した法輪功伝授班であったことを思い出す。
ある日、師父が泊まっておられるところに大連から来た学習者が見舞いに来た。話をしている最中に両手を後頭部において両側に引っ張られた。そしてわれわれに「何を見ましたか?」と聞かれた。一束の赤い光しか見えないと答えると、師父は「帰ったらしっかりと修煉してね、あなたたちの元嬰の大きさがこのぐらいですよ、必ずしっかり修めてね」と言われた。翌日、われわれは師父と一緒に車で出かけた。雨が降っており、道路もぬかるんで車もどろどろになった。車が止まった後、師父は先に車を降りて車と窓を拭き始められた。伝授班が終わった後、私たちは名残を惜しみながら師父と別れた。師父はわれわれにタクシーを呼んでこられた。一人の学習者が車酔いをしていることを知っていて、車が走り出すまえに師父は車輪に対して法輪をまわし、同時にこの学習者の身体を調整された。学習者に対して師父は自分の子供を扱うように行き届いた配慮をしておられる。どんな些細なことも師父の話しぶりと行いは弟子の心をうつことができる。
③ その後、私の心臓病は再発したことがない
師父が最初に大連に来られたときに私は「私の全身は皆病気であり、心臓病や頚椎病など皆あり、私はかつて数回死んだようです」と自分の身体状況を師父に伝えた。師父は何も話されなかった。しばらくたって、師父は出かけようとして、私のうしろを通られたときに、空中で何かをぐっと掴まれた。しばらくたってから、師父は帰ってこられて「現在どんな感覚ですか?」と私に聞かれた。私は「何も感じませんけど、足がちょっと熱く感じただけです」と言った。その後、私の心臓病は再発したことがなく、薬も一錠も飲んだことがない。
その後、6月に成都での伝授班でまた師父にお会いした。師父は「完全に治りましたか?」と親切に私に聞かれた。私は「はい、完全に治りました」と感激しながら答えた。当時、師父は「あなたの悟性は悪くない」と私を励ましてくださった。その日の午後、師父は自ら功法を教えてくださった。そのとき、誰かが私の頸部をぱっと叩いたが、私が振り返ると、誰もいなかった。師父の法身が私の身体を調整しているとすぐに分かった。その後、私の頚椎病も再発したことがない。私は全身病気だらけの身体から無病状態に変わった。これは師父の慈悲が私を救い済度した結果であり、私は心から佛の恩恵を受け、大法がもたらした素晴らしさを感じ取った。
④ 師父は私が肉を食べない執着を取り除いてくださった
一人の学習者が以下のことを語った。
私は幼いころから肉を食べないことがだんだん一種の観念となってしまい、肉が食べられない。長い間、これも観念であること意識しなかった。ある日、北京に行き、師父にお会いした。師父はわざと北京ダックをおごってくださった。私はそこに座って食べたくなく、「どうしよう」と考えていたところ、師父は私の考えがよく分かっておられ、私のこの心を取り除くために、師父は自ら箸でダック肉を挟んで私に渡しながら「どうぞ」と言われた。師父が自ら渡してくださったものだから断ってはいけないと、何も考えずに食べた。その後、私は肉を食べるようになったが、肉に執着しない。実は修煉者として世間の如何なるものに対しても観念を持たず、しかも執着しない。お腹を満たすためなら、手当たり次第何でも食べる。人心の執着がなければ何を食べても結構で、過去、肉を食べるのは執着であると思い、肉に反感を持つようになり、肉を食べないことにした。実はこれも人心である。如何なる人間の観念も持たずに、自然の成り行きに任せることこそが修煉者の状態である。
(続く)