迫害への容認は私の修煉上の漏れである
【明慧ネット2006年4月6日】蘇家屯事件が暴きだされた時、私は中共邪党の罪悪に憤慨した。心の中で「過去に私のやった真相伝えのことが少なかったから、これから私は秘密収容所の罪悪を暴き出すことに全力投球する」と自分に言った。しかし、一カ月が過ぎたが、ただ数日の余暇時間しかできなかった。残りの時間は皆仕事、或いは家事(わが家は私だけが修煉している)に追われていた。ひいては私の学法の時間もなくなりそうになった。私は発正念でこの状態を変えようと努力したが、あまり効果がなかった。これは旧勢力の妨害だと分かっているが自分の漏れがなかなか見つからなかった。
昨日、同修からのメールを読んで、自分の漏れをついに見つけた。秘密収容所の真相伝えのことで私は基点の置きどころを間違っていた。私は大法を首位に置かず、逆に秘密収容所や臓器移植のことを主要な問題と扱っていた。私は真相を伝えるときに、いつも臓器摘出の邪悪さを強調しているが法輪功のことをめったに言及しない。なぜならば、生きたまま臓器を摘出したこと自身も十分その邪悪さを表すことができ、世人の良知を十分呼び戻すことができるから、別に邪党の法輪功への迫害に言及しなくてもいいと思ったからである。
私の考えは間違った。中共邪党が生きた人間から臓器を摘出することは中共邪党が法輪功学習者を監禁して、これらの身体から臓器を摘出することとはまったく違うことである。前者は中共が臓器を摘出した罪悪を世人に教える。人々がこのことを聞いたら中共の臓器摘出を非難したり、譴責したりするが、中国は依然として別の手段で法輪功学習者を迫害し続ける。ところが、われわれが世人に伝えようとするものは、中共の法輪功および法輪功学習者への犯罪である。臓器摘出は単なる法輪功学習者への迫害の一つにすぎない。秘密収容所での罪悪は制止されなければならない。臓器摘出も制止されなければならない。もっともっと重要なのは中共の法輪功への迫害が制止されなければならないのだ。
また、この事件において私の犯したもう一つの誤りは、一つの誤った基準を用いて中共を量っていた。「中共が本当に邪悪で、私はもう中共を容認できない、私は中共の罪悪を暴き出さなければならない」と思った。実はこの考えに一つの誤った観点が潜んでいる。もし中共が臓器摘出の犯罪をしなければ、私はまだ中共を容認できると常人の観点で中共を量っている——中共が殺人するかしないか、或いは臓器を摘出するかしないかなどの基準で量っている。しかし、本当に良し悪しを量る基準は「真善忍」である。師父は『転法輪』の第一講で「真、善、忍は良い人か悪い人かを判断する唯一の基準」といわれた。だから中共が邪党であり、生きている人間から臓器を摘出したからではなく、大法に反対したからである。
ちょっと高い基点から見ると、われわれは常人の次元に立って物事を考えている。たとえば、あなたは殺人をしてはならない、あなたは臓器を摘出してはならない。だからわれわれは常人のことしかやっていないが、宇宙の法を正す角度から見ると、中共が大法に対して罪を犯している。だから、常人に真相を伝えるときに、大法の立場に立って伝えるべきである。秘密収容所や臓器摘出の話を契機として法輪大法の素晴らしさと共産党の邪悪さおよび法輪功学習者に対して犯した種々の罪悪を衆生に伝えるべきである。
この漏れを認識した後に、私は学法の時間があるようになり、この文章を書く時間も見つけた。他の同修も私と同様な漏れがないように切に希望します。
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/4/16/125321.html)
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