日本明慧


自我を放下した後の昇華  

 【明慧ネット2006年4月9日】修煉において最も放下し難い心は自我に執着することで、学習者もしくは常人の中で軋轢が生じたとたん、己のうちを探るようにするのか、それとも胸中穏やかならず不満を思うかどちらですか? たとえ本当に相手が悪かったとしても、その時の心の純潔さを持って、気分に左右されますか、正気を失いますか?

 濡れ衣を被ったとき時、誤解された時、同時に心が傷つけられたと感じたら、自我に執着すると同じことになります。修煉の中で起きたすべては偶然ではなく、それは心性を向上させる要素があります。以前は学習者同士や他に誰かと揉めたら、いつも被害者は自分だと思い込み、他人のやり方がだめなのだと不満になり、その時の心が荒波に翻弄されたかのようで、修煉者のあるべき姿を失い純粋で清らかな心が失われます。

 昔、読んだことのある物語は、ある老いた和尚さんが少女との密通で子供を生んだという虚言で攻撃されて、日ごろ皆から皮肉に罵られ責められたりしましたが、彼はいつもの口調で「え!そうですか?」と返して平然と対応したということが描かれていました。まさに清らかな堂々とした心で、慈悲に衆生に接するならば、常人の中の喜怒哀楽に影響されますか? 修煉者の理と常人の理とは反対になっているため、この枠を飛び越えないかぎり、心性を向上させるいいチャンスだと見分けることができず、このまま機縁を何回も失っていくのはいけません!

 現在の大法弟子が、師の正法を助けて、衆生を救い済度するという大事な時期においては、自我に執着してはならないうえ、衆生のことを常に念頭におき、三つの事をよく行い、師父の慈悲済度に背いてはなりません。最後は『境界』の「悪者は嫉妬心の致すところ、私の為、気の為、自ら不公平と謂う。善者は慈悲心常に在りて、怨無く、恨無く、苦を以て楽と為す。覚者は執着心無存にして、幻の為に迷う世人を静かに観る」をもって皆さんと一緒に励みましょう。

 不足なところがあれば、慈悲なご指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/4/9/124794.html