努力してもっと精進する大法弟子になる
文/Joel Chipkar
【明慧ネット2006年4月2日】「転法輪」の中にこう書いてあった「上士、道を聞けば、勤めて之をおこなう。中士、道を聞けば、在るがごとく、亡きがごとし。下士、道を聞けば、大いにこれを笑う。笑わざれば、以て道と為すにたらず」。
昔、私はここを読むたび、自分はその上士だと自負していた。師父は法を私に伝えた。私はそれがわかる!世界中に数十億人いるが、私はそのなかの少数の法を得た人の一人だ!毎日朝、私は法を学び、非常に感じがよかった。自分が師父の大法に対してよく理解していると思っていた。私は法を学び終わって、本をおいてから、私の一日が始まる。
私は法を正す時期に多くのことを行った。いまこの6年間の修煉過程を振り返ってみると、表面的に私は非常に精進している学習者に見えて、法を得た上士のようだった。
われわれはみんな上士になりたい、誰も自分が中士と認めたくないのだ。
しかし、不幸なことに、私はその法を学んでいた中士だということを意識した。
私の修煉の中で、ある仕事が順調に進んでいる場合、私は自分の修煉状態が非常に良く、すべてのことをうまく処理できると思った。私は座って「転法輪」を読み、煉功して、本の中の道理をよく理解し、知恵と喜びが満ちている感覚だった。私は法の要求に沿っておこなっている上士だと感じていた。
他人との間に問題が起きたとき、或いは状況が忙しくなり無秩序的になっているとき、私はよく他人を批判し、自分も圧力が大きいと感じた。私の心が動き、常人のようにやり返したりした。私は法を学ぶ途中の中士のように、「転法輪」から学んだ原則ですべてのことを行っていなかった。
我々の2006年の新年のGalaがあっという間に終わった。しかし、私は依然として覚えている。その間私は上士のように本当に修煉して次元を上げるチャンスをつかめなかった。Galaを準備する過程の中で、私は非常に心配だった。なぜならほかのプロジェクトと同じく、多くの学習者はいつも事情を最後の最後まで伸ばしてやりたがっていた。ほかの企業と交渉するとき、これが非常にプロ的ではなかった。このような成熟でないことが我々と協賛者との関係を損ない、我々のGalaの名声に影響を及ぼすと思った。
しかし、私は一人の精進している上士のように、黙々とみんなを支えてさらに自分の心性を修煉することが出来なかった。私の心は動いた。私は緊張した。私はみんなと意見が異なり、プロジェクトの中のほぼすべての学習者を批判した。
ある学習者が自分の携帯をチケット販売用にした。ある日、私は彼女を批判した。彼女がいくつもの電話を受け取れなかったからだ。次の朝、彼女が起きたとき、自分の手の中に携帯を握ったままだった。彼女はそれからのいかなる電話も逃げないと心配したからだった。それから、私は非常に不安になった。
Galaが終わって、私は内に向けて自分の欠点を見つけた。しかしそれは遅かった。私は内に向かって探したが、私は多くの試練を乗り越えることができなかった。私はときどき修煉する中士のようだった。
師父は昔から我々に最後の執着、その我々が最初大法を学び始めた時から執着を取り除くよう要求した。私は最近になって自分の入門当初の根本的な執着をやっと悟った。私はいつも執着を取り除くことが修煉のためと思っていたが、しかし最後になってこれが楽しい人生を所有したいということに執着していたのだと意識した。
私は高校を卒業してから、楽しくならなくなった。数年来、私はずっと外に向けて楽しさを求めていた。数年の苦労を経た後に大法に出会った。
私は座って、「転法輪」を読み、煉功することができる。そのとき、私は本の中の道理をよく理解でき、さらに知恵に満ち、喜ぶ感覚を覚えた。
しかし、本を閉じて、同修達や家族と交流すると、私は法を学んで得られた理解がすぐに消えた。私はまた緊張し、落胆した。魔難にあうとき、常人の心がでた。いつも他人を私の考えに従わせ、私は自分の面子を保とうとした。
魔難が大きすぎるとき、私は法の中から楽しさを求めるように試みた。
法輪功で自分の問題を解決しようと思った。自分の気分がよくないとき、私はさらに多く法を学び、煉功し、そして私の状態を改善した。自分の気分がいいとき、私はだらけやすく、仕事に忙しく、そしてもっと多くの魔難に陥って解決できなくなった。
それら法輪功で病気を治療したい学習者と同じく、私は煉功で自分の問題を解決したいと思って、自分を楽しくさせようと思った。これは同じ道理だった。
旧勢力はこれらの漏れを探して学習者に試練を与えた。
彼らの認識として「この人は楽しさを求めている、彼は法で自分を楽しく変えようとしている!我々は彼の家庭をもっと苦しく変えて、彼の反応をみよう。他人に彼を攻撃させ、彼を罵倒させよう、彼が執着を放棄できるかどうかみよう!」
「この人が法を病気治療に利用したい?では彼を病気にかからせ、彼に執着を放下できるかどうかをみよう、彼の病気をもっと重くさせよう。」
「この女性はみんなが彼女によく接し、彼女を好きになるようにと願っている?ではみんなに彼女を嫌いにさせよう、彼女の悪い話をさせよう、彼女が執着を放下できるかどうかを試そう。」
この道理は本当だった、旧勢力は我々の漏れを利用して我々を迫害した。
師父が「転法輪」の中で、「これまで、公園や、自宅で煉功するにあたって、けっこう真剣に煉功し、かなり敬虔で、真面目に励んでいる人がいます。しかし、その場を離れると、元の木阿弥で、常人の中での名誉や利益のために人と争ったりします。そういう人の功は伸びるでしょうか?」私自身は本当にそれら煉功で功を伸ばすと思っていたが、本当は自分の心性を向上させていない人だった。
師父が「転法輪」の中で煉があくまで補助手段で、修がもっとも根本的だと我々に教えている。師父が私に法と功を与えてくれた。これで私が法で自分の日常生活の中で自分の心を修煉することができる。魔難がきたとき、これこそ我々が要求している修煉であるが、私は多くのとき修めていなかった。
師父が「圓満成就に向かって」の中で我々にこう教えた「皆さんはご存知だろうか? 現在、旧い邪悪な勢力の大法を迫害する最大の口実の一つが、皆さんの根本的な執着が隠されているために、難を重くして、これらの人を探し出さねばならぬ、というものなのだ。」
我々が深く隠している執着が旧勢力に利用され非常に重い問題になる。多くの同修が病業と戦い、一部が命まで奪われた。
長い間、私は師父の法を正す時期の大法弟子と自認していた。しかも大法を証明することに忙しく、旧勢力は私を邪魔できないと思った。私はいつも大法の仕事が忙しいことを口実に、自分の執着を見落とし本当に自分を修煉し、師父が教えたように魔難の中でまず自分の心性を高めるようにすることを怠った。
2005年1月、私に病業の症状が出始めた。まず風邪の症状がでて、そしてそれらの症状が下痢と痙攣に変わった。これらは私の注意を引くことはできなかった。私はこれが自分の体と思想の中の悪いものを取り除く方式と思ったからだ。当時私はこのような現象が出たことに喜んだ。
しかし、事情がだんだん悪くなった。数日後、私は食事することもできなかった。体内から出血し始めた。私は絶えきれずトイレに入ったが、便に血が混じっていた。体のエネルギーが全部とられたようで、ベッドから起きることもできなかった。体温が正常値をはるかに超えて、いつも汗びっしょりだった。痙攣がだんだん頻繁になり、ときどき激しい痛みを伴った。私はまったく寝ることもできなかった。このような症状が2週間も続いた。私は13キロもやせた。
毎日同修がローテーションを組んで、私に付き添いにきた。妻はさらに付き添いっぱなしだった。彼らは正念を発し、私が食べれるようにいろいろ方法を考えた。私は師父の説法を聞けないほど衰弱した。できることはただ師父の写真を撫でるだけだった。ある夜、私は自分が本当に死にそうに感じた。しかし私は意外にも死亡を期待しているようで、この感覚が気持ちいいように思えた。しかしすぐにもうひとつの念がでてきた。私はなぜ死んでいいのか?私の歴史的使命は?死んだらもうなにもできなくなる、そして私は我慢し続けた。私は病気の制御から抜け出そうと試みたが、失敗だった。
父が私に電話してきた、彼は電話の中で怒鳴った。すぐ病院にいくよう命令してきた。私は行きたくなかった。父は怒って大法に対し悪い言葉を多く話した。
私は怒りと挫折感を味わった。しかし彼にこれ以上大法へ悪い言葉を話すことを阻止するために私は病院にいかなければならないと思った。病院で、医者から入院して観察する必要があると言われた。私は入院したくない、家に帰りたいが、痛みに耐え切れなかった。師父、すみません。私は自分のこのような状態を恥ずかしいと思った。
私は3週間も入院した。その間点滴だけで命を維持した。
私は本当に恥ずかしかった。自分は試練の前で失敗したことを知った。ほかの人が私にこれが邪悪の攻撃だ。旧勢力の安排を否定しなければいけないのだと教えてくれた。これは事実だと知っている。
しかし、心の底で旧勢力が私を攻撃し、それが成功した原因は私の心性が低かったためだと知っている。修煉の精進が足りなくて、執着を多く取り除かなかったため、邪悪に隙を突かれた。
師父は我々に本当に好い人と悪い人を区別するのはその人が宇宙の真理に同化できるかどうかだと教えてくれた。
自分が真善忍の特性に同化してこそ、昇華できるのだ。
病気治療も、楽しさを探すのも、或いはほかのなにかを求めることも、この根本的な原則は変わらない。大法は私にこれらのものを与えてくれない。なぜならこれらはもともと取り除くべきものであるからだ。大法が私の執着心を助長することはない。私は大法を利用して自分の楽しさへの欲望を満足させ、保護させようとしたが、師父は本当に修煉するために、これらの執着心を取り除くために、我々に大法を与えて下さった。
多くの同修は仕事が忙しく、圧力が大きく、ときどき安逸を求める消極的な考えを隠している。我々は他人や自分を騙して、このような執着がないということができる。しかしこうすれば本当に傷つくのは自分自身である。なぜなら、我々の悟りが遅ければ師父の法を正す進程を遅れさせることになる。師父が依然根気よく私達にいろんな執着を放下するのを待っておられる。
私は非常に恥ずかしい。自分は多くの時間を無駄にした。私は本当に目を開けて師父の目を見ることができない。
魔難と試練を前にして私は失敗したが、法を正す進程がどんどん速くなっているのを感じる。私は自分が同修たちに引っ張られて前に進んでいると感じた。師父の慈悲と寛容で、私にはまだもっとよくやるチャンスがある。また回りの同修たちのおかげで、私は絶えず押されて前に進んでいるが、私はこの修煉環境に深く感謝している。
私は本当に自分が最終的にいかに旧勢力の安排を打ち破り、自分がいかに本質から変化したかで自分の発言を終わらせたいが、しかし私はまだまだできていない。私はまだもっと精進する大法弟子になろうとして、法を正す進程についていけるよう、たえず努力している。
(2006年ニューヨーク法輪大法修煉心得交流会発言原稿)
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/4/2/124208.html)
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