日本明慧


安逸を求める心を見つけて、残っている道をしっかりと歩んでいこう   

 文/海外の大法弟子

【明慧ネット2006年5月20日】私はずっと自分の根本の執着の為に生きていた。しかし私はそれを知らなかった。私はずっと自分の根本の執着は「私心」だと思い、自分もずっと努力してそれを取り除いていた。しかし、それは一層また一層にあり、時にはとてもしようがないと思っていた。なぜそれを取り除くのがそんなに難しいか私は分からなかった。

 最近、私にとてもよくない状態が現れ、法を学びたくない、真相も伝えたくない、ただ発正念は、まだしていた。私はこのような状態が完全に間違いだと知り、私はとても焦って、このような状態から抜け出したく、多くの同修を探し当て、彼らと私の状態を交流し、啓発と助けを得ることが出来る事を望んでいた。多くの同修は彼らの見方を言い、私を励まし、これは私の考えではないからそれを否定すると教えてくれた。私は納得したが、依然として、どうしてこのような状態が現れるのか分からなかった。

 今日私は、かすかに私がずっとあるものに正視していないことを感じた。私はその存在を知り、しかし私はそれを見落としていた。それは安逸を求める心だ。

 私が法を得た原因は、私が一気に『転法輪』を読み終わった時、人が修煉により仏陀になり、永遠に解脱し、永遠に苦しみに耐えないという法理が深く私を動かした。そこで私は解脱したい、もう苦しみに耐えたくないという心を抱き、修煉に入った。その時、私はこの理由がとても正当だと思った。修煉を始めてから、私は洪法に対して興味を持たなかった。私はそれがとても疲れ、とても時間を浪費すると思っていた。私は法を学ぶことを非常に重視していた。師父が人の修煉円満が出来る要素のすべては、この法の中におさめていると言われていたので、私は自分の向上をとても重視し、どんなに苦痛でも、万事を内に探していた。私は執着を探し当てたら、それを取り除き、私はとても愉快になると知っていたから、もし私は内に探さなければ、その執着がずっと私を苦痛にさせる。私は苦痛になりたくなかった。

 私が法を得た時、ちょうど大法が迫害に遭った。師父が「三つのこと」をしっかりやるようにと教えてくださった。法を学び、発正念をし、真相を伝えることだ。私は必ず師父の話を聞かなければならないことを知り、私は大法の仕事をしなければならず、私は真相も言わなければならない。べつに内心から衆生を済度したいとは言えないが、私は機械的に真相を伝える仕事をしていた。チラシを配ったり、領事館で発正念をしたり、国会に行って議員を訪問したり、弁護士を探したり、新聞の編集をしていた。私はたくさんの仕事をしていたが、私は彼らに言った話が結局彼らに真相を分からせることが出来るかどうか考えず、私はただやるためにやっていただけなのだ。これは私が解脱でき、永遠に苦しみに耐えない為に、避けて通ることの出来ない道だと知っていたからである。もちろんこの考えはそんなに明らかではない。私は自分と同修に私がこのようにするのが衆生を救う為だと教えていた。私はずっとこれを使って自分の本当の心理を覆い隠していた。解脱したい、もう苦しみに耐えたくない。

 その後、大法の仕事はだんだん多くなり、私は楽でしやすい仕事を選び、し始めた。真相資料もあまり配らないようになったし、議員への訪問もしなくなった。ただ家に居て電話をかけたり、新聞を編集したりしていた。私は外出しないために、いろいろなことを口実にしていた。ただ外出はとても疲れるから、煉功もやりたくなくなった。私はこのような状態が間違いであることを知り、ただ学法を通じて突破しようと思い、ただ苦しみに耐えないでこのような状態を突破出来ると思っていた。私は多くの法を学んだが、私は依然として突破することが出来なかった。私は執着心を抱いて法を学び、苦しみに耐えないで精進の状態を達成することが出来ることを望んでいた! 私はいったい何を得ることができるのか?

 私はだんだんはっきりしてきて、この数年間の修煉過程において、私はずっと自己解脱し、永遠にもう苦しみに耐えないという目的を達成するため大法を利用していた。私が本当に追求しているのは大法に同化することではなく、永遠に安逸になり、苦しみに耐えないということだ。いかなる大法の活動に参加しても、私がまず考えていたのは、どのようにもっと最大限に衆生を救うのかではなく、どのように少なく苦しみに耐えることが出来るかだった。これは、私の時間に対する執着にも現れた。私の心の中は法が世を正す時が早く到来することを待ち望み、何も言わないが、結婚してとても長いにもかかわらず、子供は要らなかった。私は子供ができたら自分の修煉を遅らせることを恐れていた、更に子供ができたら、とても苦労することも恐れていた。どうして、私心を取り除きたくても永遠に取り除けないか私は分かってきた。私が求めたのは私心の為で、安逸、苦しみに耐えたくないということだ。自分は死に物狂いで要したものを捨てたい人のようにすることは可能性だろうか? 目的に達せない時、大法が結局私を変えることが出来るかを疑っていた。

 このニ、三日私はずっととても気落ちして、自分はあまりに不潔で、大胆にも大法を利用していたと分かった! 自分が正法時期の大法弟子としての資格がなくなり、更に自分に期待する衆生に対して申し訳ないと感じた。今日、師父の新経文を読む時、霧が晴れて花を見るように、自分は師父がおっしゃった大法弟子ではないと気づいた。自分がまるで部外者のように感じて、これは私を更に苦痛にさせた。しかし、続けて読むにしたがって、1つの考えがはっきりとしてきた。どうであれ今生は必ず大法を修煉する事、必ず師父に従う事だ。自分が以前いくら不潔なことをしたかに関わらず、大法に対していくら尊敬しなかったかに関わらず、それは私が意識していないので、今私はよくない思想を認識して、それを消してしまわなければならず、それを承認せず、それを修煉して消し去る。どうであれ私は自分の最大の努力を尽くして残る道をしっかり歩むのだ。

 この執着心を暴露しようと思い、これらを書きだした。それによって私はもっとそれをはっきり認識して、もっと早く取り除き、同じような執着を持っている同修に少しでも役に立つことが出来れば幸いである。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/5/20/128242.html