自我を放下して 大法に園容する
文/台湾法輪大法学習者
【明慧ネット2006年4月20日】過去に一人の同修が私に、自分が行っている事が他人から重視されていないと言った事があり、私はこれを聞いてとてもおかしいと思いました。こんなに重要なのに、メディアに関する事なのに、どうして重視されていないと言えるのでしょうか?多くの学習者は皆黙々と電話を掛けたり、ネットで真相を伝えたり、街頭にてチラシ配ったり、その他関係する事を行っています。ならばこれらの同修は更に誰もが重視されていないのではないでしょうか?
法輪大法の全ての事はお互いに連鎖しており、何処かの粒子が出来ていないと、何処かに漏れが生じ、邪悪がそこに突き込むのです。一人一人が自分のやっている事に責任を持っているなら、私達の体の何処においても、皆大法に園容する事が第一位です。協調者であれ、責任者であれ、或いは街頭にてのチラシ配りにせよ、威徳は皆同じであり、誰の心性もその位に到達すれば、誰もが良く修める事となり、 やっている事の作用が大きいのです。
自我を放下して、大法に園容する。大法が必要とするなら、条件を有する同修は黙々と補充し園容するのです。例えて言えば、文章を書いて大法ネットを園容する際、もし心に執着を抱き、文章を載せなければ時間の浪費になり、ならばこの時間を他の事に使った方が良いし、まるで一人の学生が懸命に勉強して良い成績を得られるかどうかに執着する様です。逆に言えば、もし私達が懸命でなければ、如何して良い成績を貰えるのでしょうか?
私は常に文章を書いて大法ネットに投稿しており、時には選択されない時もある。選択されないからと言って良くない訳ではなくて、私はこれを機会に、何処にまだ認識の向上が出来ていないのかを内に向かって捜します。私は何時も経験を生かし、直された部分に付いては自分の認識不足があるのかと、同修の経験を参考し、次からしっかり書きます。選択されていないものに付いては、執着せず、問題が何処にあるかを探します。こうして転びながら、自己鍛錬の中で段々と成熟し、より穏健になりました。諺にも「挫折の中から勇気を養う」とあります。大法学習者は挫折、経験の中で己の執着を取除きます。
私は責任者ではないし、協調人でもないが、私は法を実証する事に責任を持ち、全体を園容する為に責任を持ちます。よって、私は法の中で絶えず更に高い法理を認識する事が出来ます。修煉は己の功労を見るのではなく、技能の高さでもなくて、それぞれの連鎖の上で黙々と補充し園容するが真の向上です。私達のやっている事は誰かに見せるのではなく、皆黙々と行っており、私達の心使いは師父に見えており、同修も感じています。
個人の体験であり、同修の慈悲なる指摘お願いします。
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/4/20/125642.html)
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