日本明慧


大法弟子は礼儀正しくあるべし

 文/台湾大法弟子

【明慧ネット2006年4月28日】修煉している間、よく、ある一つの問題に気づきました。それは学習者の間での冷淡さや自己を閉鎖することです。恐らく修煉中に関を越えようとするときに、困難が大きくなると、こうした自己を守る意識が本能的に生じるのかもしれません。

 しかし、修煉者は情を捨てたら、それに取って代わるのは冷淡さではなく慈悲です。ある交流会で、一人の学習者が前に夫について南にある一つの煉功場に行った時、煉功場の人たちは挨拶もしなかったと語ってくれました。彼女がその時感じたのは冷淡さであったと言います。どんな場合においても修煉者は高嶺の花のように身構えず、修煉者のあるべき慈悲をもって人に平和な感じを与えるべきです。

 また、私達を不公平に扱う政府機関や常人に対して真相を語る時、過激な言葉や行為などを慎むべきだと思います。一方で、過激な言葉や行為は修煉者への要求に適しないだけでなく、人の心を動かすことができません。他方で、自身の漏れがあるため邪悪につかれる隙ができてしまうのです。

 私は自分が真相を語る実際的な経験から、人の心を動かすには一歩一歩上手く引き寄せ、道理で説得するしかありません。ですが、私達の立場をまだ表明しないのに、闘争心が表れてしまったら、衆生を済度するのに役立たないばかりか、事も台無しにしてしまうのです。それで、人は法輪功をやる人がこうだと言い、私達に罪をなすりつけてしまいます。師は最上の法を私達に伝えてくださいました。法輪功がどうかと物言いがつけられるのは、それは私達がきちんと実践していなかったのです。

 私達が迫害される真相を常人社会に語る時、必ず礼儀正しくすべきです。なぜかと言いますと、慈悲は人を近寄せ、無礼は人を遠ざけるのです。慈悲というのは見せかけのものではなく、修煉によるものです。本当の慈悲を持てば、修煉者はどんな場合でも、いつも周りの人々への思いやりを優先させるはずです。そうすることによって真に人を救済することができます。

 単に公の場合には礼儀正しくするだけで十分だと言えません。私的な場合でも自分が慈悲で衆生をもてなしているかどうかを常に自分を問うべきです。例えば、昨日私は何かの用事である通信会社と交渉した時、サービスカウンターのスタッフが私に満足できる返事をしなかったため、私は理不尽な会社だと不愉快に不平を漏らしました。その後、娘が私の誤りを指摘してくれました。娘はサービスカウンターの人も雇われているので決定権を持たないし、もし彼女が雇用主なら私の要求に応えてくれるかもしれないと言いました。娘はあの女性スタッフがただの雇われ人であって、私がそういう口調で彼女と話すべきではないと教えてくれました。

 この十数歳の子供の話は私の心を深く動かしました。確かに、娘は私の欠点を指し示しました。とにかく私達は先に相手の立場に立って物事を考えるべきです。しかも、公の場合であれ私的な場合であれ、修煉者はあるべき教養と礼儀を表すべきだと思います。日常生活の些細な事でも、自分に対してきちんと扱うことを要求すれば、人前に立つ時に着実に修煉したかどうかが明らかになってくるでしょう。

ほんの悟りで、学習者の皆様の慈悲のご叱正をお願いします。          

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/4/28/126289.html