日本明慧


観念を持たずに法を学ぶ 

 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2006年6月11日】最近いくら努力しても大きな進歩がありませんでした。自分でも原因が分からず、進歩に対して執着してはいけないと自分を慰めるばかりでした。この間、ある同修との交流の中、自分の多くの観念による、法の中身を理解するのに障碍を作ったことが原因だと気づきました。

 師父の「2006年カナダでの説法」が発表されてから学んでいると、表面では師父がおっしゃったことは全て分かっていると感じましたが、一つ奇怪なことは、簡単な一文でも理解できるまで長い時間がかかります。その時、私は深く考えずに、頭の中の乱雑な思想を置いて読み続けることにしました。このようにして繰り返し学んだ後、突然法の意味がぱっと分かりました。法の中身は絶えず私に現れてきました。私の次元において、師父の以前の説法は全て、私たちが旧宇宙の中から形成した固い観念を破り捨て、一文一文は全て私の観念に対して来たようです。

 私が言っている観念は、常人が指している観念の概念ではなく、私たちが修煉の中で悟った法理です。私たちはこれは正しいと思うので、なかなか放棄しないのです。法を学ぶ度に、これらの古い観念を抱えているので、法理の更なる深い中身は見えないのです。例えば、法を得た最初のとき、私たちが大法の中に入って来られましたが、 一部の人は入って来ませんでした。その原因は、それらの人が自分が常人の中から得た判断基準と観念を抱えながら法を勉強したからです。私たちはそうではなく、何も考えずに純粋に学び始めたので、法理が見えたのです。現在も同じです。法の中から形成された観念を持たずに法を勉強すれば、法の中身が見えるのです。

 師父がおっしゃったように、現在は三つのことを同時によく行うことこそ修煉なのです。私の理解では、もし今の時期に単なる三つのことの中の一つのことを良くするのであれば、あるいは三つのことの中のいずれもよくできなければ、法を正す時期の修煉基準を満たしておらず、修煉にはならないのです。法を学ぶことは修煉の中で特に重要なことです。同修も法を学ぶ際、「この段落の法は知っています、あの段落の法は師父はすでにどこかで話されました」などの思想を持たないように望んでいます。何も観念を持たずに、徐々に法の内包が見えるようになれば、法の指導の元で法を正す時期に大法弟子がやるべき三つのことをよく行えるのです。

 現在の次元における個人の認識ですが、不足があれば同修からの指摘をお願いします。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/6/11/130174.html