日本明慧


私の母−呉玉嫻さんへの追憶(写真)  

 文/呉志平

呉玉嫻さん

 【明慧ネット2006年2月23日】元宵節が過ぎ去ったばかりなのが、私は憂えて悲しくたまりませんでした。私の母−法輪大法の弟子である呉玉嫻さんが、中国共産党の迫害により、2006年2月9日にこの世を去ってしまいました。様々な経歴を持つ、母の曲折な一生を振り返ると感慨無量です。

 * 苦労に満ちた人生 晩年に幸い法輪大法を得た

 1956年に母は広州中山医科大学医療学部に受かりました。卒業後、「文化大革命」に遭い、農村に下放されたことがあります。前後して広東湛江医学院児科教育研究課、佛山地区第一人民医院内科、開平県月山公社衛生院、開平中医院に転々と勤めました。1976年に「文化大革命」が終わってから広州越秀区中医雑病医院に呼び戻されました。定年した時、副院長として働いていました。

 勤め先の十数か所の医療機関では、特に農村に下放された時、医療の条件に限られていたにもかかわらず、重病患者が出てきたら彼女はいつも先に立って積極的に応急手当に取り組んでいました。多くの重病患者(例えば、出血性レプトスピラ症や重症インフルエンザなど)を危険な状態から脱させました。そのうえ、多くの「赤脚医生」(裸足の医者、農村の循環医)を訓練して地元の隊医と工場医になったことにも、彼女は全力を尽くしました。そのため母は何度も「先進工作者」に選ばれました。

 広州に戻って働いていた間、年寄ったお婆さんの世話をした為、1994年に母は前もって仕事をやめました。お婆さんは長年病の床に臥したせいで、褥瘡が体に広く覆われていました。その傷は深さのあまり骨すら露出していました。母は五年かけて日夜辛労に励んだあげく、入念な介護をもってやっと奇跡的にそれを治しました。

 長く大変苦労した為、母は時折心臓(甲亢)などの病気が現れてしまいました。1995年に母は偶然の機会に、広州越秀公園で法輪大法を学び始めました。短い間で病気がすべて治りました。それにまた、何十年間の医療経験及び近代科学の知識への認識に基づき、母は法輪大法が博大精深で真正の科学だとさらに確信しました。そして、より多くの人々が法輪大法を知って修煉に参加するよう、1997年に彼女は新しくできた彫刻公園の練功場で名乗り出て補導員になりました。

 * 信仰への堅持 度々迫害されて冤罪を晴らさないまま命が消えた

 1999年から江氏と中国共産党の法輪功に対する不正と圧制を訴えようとした為、母は2000年2月に北京へ上訪に行きました。しかし、非法に捕らわれ、広州越秀看守所に返送されて15日間監禁されました。

 2002年1月1日、母と兄の呉志均が法輪功の修煉を続けた為、同時に広西の梧州で逮捕され、それぞれ非法に7年間と8年間の懲役を言い渡されました。広西南寧女子監獄と広西桂林監獄に監禁されていました。その前の2001年12月13日、私の妻の朱洛新さん(元広州市茘湾区補導点の副責任者)も同じく法輪功への信仰を諦めなかった為、非法に逮捕されて10年間の懲役に処せられ、広州郊外にある広東女子監獄に監禁されました。それから、私も2001年5月28日に逮捕された後、広州市第一労教所での2年間の受刑に処せられました。2002年1月25日から2002年6月8日までの間、労教所五大隊のグラウンドで手錠をかけたまま吊られて日に晒し続けられていました。母の妹、呉玉韫さんも信仰を諦めるのを強いられて迫害により、死に至ったのです。他の、迫害に関する詳細な記述は暫時省略します。
 
 2004年6月、母は広西南寧女子監獄で迫害によって乳腺ガンに罹り、しかも晩期だったのです。その為、病気治療で1年間の保釈が認められました。それでも1年近く経った2004年4月に、広州女子監獄の人が3回に渡って家に来て、法輪功の修煉を断念しなかったら保釈の継続ができないので再び監獄に戻らせると言い、母を脅かしました。母は脅迫に屈服せずに成す術なく家を出ざるを得なくなりました。2005年7月11日午前10時頃、母は鄭州国安に捕らわれました。広州女子監獄の鄭州国安から知らせられ、人を識別しようと鄭州に飛んできました。2日連続で昼夜尋問を経て、三日目(7月13日)の午後8時、母が突然大出血しました。関係者らがたくさんのタオルで押さえても血が止まりませんでした。結局、彼らは人命の責任を負うことを恐れ、母を釈放しました。母は苦痛を我慢しながら、鄭州から一人で辛く電車に乗って帰りました。家に着いたら、高熱が連続20日以上続き、体の調子が急速に悪化してしまいました。その時広州女子監獄と街道弁事処がようやく急いで保釈の手続きを終え、一時的に母の組織関係を地域コミュニティーに押し、迫害の罪悪を隠す為、月に人民幣300元の救済金を与えることにしました。(当時の証拠で証明できます。)

 勤め先は610の指示で何年も前から母の養老金の給付を止めました。それでも、母は窮屈な生活費と医療費といった二重の重圧のもとで、苦しく暮らしていたのです。毎日身体の激痛に耐えたあげく、母は冤罪を晴らせずにこの世を去りました。

 死者の家族が派出所に死亡証明を発行してもらう必要があります。しかし、母が亡くなった当日午後2時、非法に受刑されたり戸籍を取り消されたりしたことによって、広州三元里派出所、広州華楽街派出所と東山区公安分局、という三つの機関が互いになすり付け、どちらも証明を発行することを拒みました。そして深夜12時まで延ばさせ、やっと証明を発行しました。一枚の死亡証明をもらうのに、なんとほぼ10時間もかかりました。その後、二日間の簡単的な告別式においても、610の関係者が家族は弔詞を読むことを禁じましたので、家族は仕方なく戸外で早々弔詞を読むしかありませんでした。母の葬式にかかった費用は家族で全部負担しましたが、もし勤め先が支給すればまた上級機関の許可をもらわなければなりません。

 上記のことから、こうした法輪功への圧制を通じて、我々は江氏と中国共産党の残酷さをありありと見ることができるでしょう。人を迫害して死なせても迫害し続けます。それにまた、中国では、同じ迫害に遭遇している家庭が数え切れないほどあります。世界のすべての善良な人々に、中国大陸で発生している法輪功への迫害を注目するよう呼びかけます。迫害は直ちに停止すべきです。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/2/23/121399.html

(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/3/27/71245.html