内に向かって探すことと、集団学法について
文/ドイツ大法弟子
【明慧ネット2006年5月3日】私はここで私の修煉状況と学法、正法に対する一部の認識を述べたいと思う。
* 本当に内に向かって探す
5年前、私がニューヨークで修煉を始めたとき、私は自分の修煉環境が不満だった。例えば、私が同修へメール送っても、返信はなかった。良くない状態の中で、私は外に向かって探した。他の人はなぜ私を手伝わないのか?
私はあまり集団学法と煉功に参加しなかった、同修たちは数カ月も私に会えなかった。私の強い執着と利己心で、私はずっと心性の関を乗り越えられずにいた。
この状態はとても長く続いた、ある日、私は積極的に同修の中に入っていこうと決心した。他の人が私に電話しないなどと責めるよりは、私から彼らに電話すればいいではないか? それから、私は同修たちの集会に参加しようと思った。集会の中の一部の同修を私はあまり好きでなかった。彼らは自信過剰で、私に対して高慢で、私はかれらの協調人ではないからだ。
実は、私がそれらの同修に我慢できない原因は自分の執着だ。この執着を放棄するため、同時に、私はすべての同修と同じように彼らを見られないのは私の慈悲心が足りないと、私は集会の時に合わない同修と交流した。私は段々彼らに注目し、私の彼らに対する偏見は正しくないことに気づいた。彼らと接することは他の同修みたいに容易ではなかったからだ。だから彼らから私の執着心の存在が更にわかりやすくなった。心地よい状態の中でどうやって上昇できるだろうか?もしそれらの同修と矛盾があるときは、自分から交流すべきだ。そうすれば同修も更に早く私の執着を言い出すからだ。これらの執着はどっちみち取り除かないといけない、ならば、なぜそれらの同修を避けるのか?
それから、ある同修が私と意見が違うとき、私はできるだけ自分のための弁護と言い訳をやめた。誰かが私を批判するとき、私は言い返さないと決心した。このようにして、私は修煉の道で大きな一歩を進めた。
他の人がどのように私に対しても、私はすべての人と同修に善を持って接しなければならない、この慈悲の考えは私の心を段々穏やかにした。不快の気持になったとき、私はどのように反発するかを考えず、静かに聴いて、内に向かって探し、他人のミスを考えなくなった。
私が自分のよくない修煉状態の責任を他人や自分の修煉環境に押し付けないようになったとき、すべては変わった。今、私は修煉の環境に不満があるとき、私は積極的にそれを改善しようとして、恨み言を言わなくなった。私は同修がやっていることに心を寄せた。これは、大法の仕事にとてもよい効果があった。私にとって、すべての修煉環境は段々よくなり、私自身を変えた。自分の経験からわかったことは、自分を変えることは自分にしかできない。私が自分を変えたとき、私の周りのすべてが変わっていった。
私は感情的に傷つけられることを恐れて、集団の学法に参加しない同修を悲しく思う。私がこのすべてを経験した後に悟ったのは、執着を放下した後に、その境地はどんなに素晴らしいかがわかった。
残念なのは、私は今でもたまに外に向かって探す傾向がある、でも私は知っている、私が外に向かって探すときは、私は上昇できないときだ。私は内に向かって探すように努力する。この数日、私は些細なことで、また外に向かって探した。私がメーリングリストへ送った執着心いっぱいの長いメールをみればわかる。私は内に向かって探すと意識したとき、これらの執着を取り除こうと思うとき、内心に矛盾が起きた。これらの頑固な執着心を消滅されたくないからだ。これは私にとって、難しい過程だった。でも、この執着心を取り除きたくない状態は修煉者の状態ではない、私はこれらの考えを取り除こうとした。
* よく修めないと、修煉環境に影響する。
最近、私はどのように地域の修煉環境を改善するかを考え,突然、私は驚く事実がわかった。私はドイツに帰った後、私は私の修煉環境に損失をもたらし、私はこの修煉環境の改善のためになにもしなかった。なぜかというと、私は自分の執着、妨害、自分のよくない考えを取り除かず、ずっと不精な状態で、ずっと関を乗り越えられなかった、私は妨害され、特に体調不良でかなり疲れた。一年間ずっと突破できない状態でなければ、私はこの修煉環境によい貢献ができただろう。
もし私がもっと自分の修煉に責任をもつなら、他人に対して、法に対して、私達の環境のためにどれだけのよいことが行えたか? 大法の威力はさらに現れ、この環境はさらに正されただろう。自分が精進せずに、もたらした損失を思って、私は泣いた。
他人を批判し、責めることは私がすべきことではない、自分の考えを人に押し付けることはさらに悪い。私にとって、最も重要なのは自分の執着を取り除くことだ。このようにして回りによい影響を与え、妨害されないように時間を有効に利用して邪悪の暴行を暴露し、さらに大陸の同修を助け、彼らの圧力を分担しなければならない。
自分をよく修めることは私の責任で、私心ではない。自分を修めて、他の同修と一緒に正法時期の巨大な責任を負うことができる。衆生に責任をもち、同修に責任をもち、私達の修煉環境に責任を持ち、邪悪の迫害を否定するのだ。
* 一緒に学法することは、とても重要な基本だ
数週間前、私がいるDortmund市で、毎週3回集団で学法をすることが始まった。そのちょっと前、私はまだ集中して学法できない状態だった。集団学法に参加して以来、今、『転法輪』を開くと、すぐよい学法状態に入り、法の中に溶け込むようだ。私の法に対する理解も短時間で上昇し、私も境地が上昇した後の強大で心地よい平安を感じた。
私は多くの同修に集団学法の重要さを認識することを期待する。共に長時間落ちついて学法するのはよい修煉環境の基礎だ。私達はいかなる集団学法の機会も逃がさないようにすべきだ。法を勉強してから、大法の仕事と修煉を交流すべきだ。もしこれらの機会を大事にしないと、ついていけずに己を失う危険がある、他人がどのように修めたのかを知らず、意識しないと、みんなについていけない。集団学法と交流をし、毎日家で自分で学法すると、数週間で同修との距離を補うことができる。
大法は無辺で、私達が真剣に学法すれば、その中で絶え間なく上昇できる。法を師として、積極的に正法に参加して、やっと高次元の素晴らしさと平和を感じることができ、正法時期の無我の大法弟子になれる。私達の同修が困難に遭うときに無視しないことだ。
これは私の次元の認識で、法はさらに深い内函がある。法に対する理解は理論ではなく、私は本当に実行したい。すべて私を助けてくれた同修に感謝する。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/5/3/126736.html)
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/5/22/73610.html)
|